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担い手

中島 貴幸 神父

今日の心の糧イメージ

 キリストは全ての人を救うために、全ての人の罪を一身に担われました。

 イザヤは、(きた)るべき救い主の姿を描写しています。
 「彼が担ったのは私たちの病。彼が負ったのは私たちの痛みであった(・・・)。彼が刺し貫かれたのは、私たちの(そむ)きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの(とが)のためであった。彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された」。(イザヤ53・4-5)
 この預言は、イエスのご受難において成就しました。

 イエスほどに、人々の救いのために自己の人生を捧げつくした人物は他にはいないでしょう。それが可能だったのは、彼が人間であると同時に、全ての人を愛してやまない神であったからです。

 ところが、そのイエスは、彼自身も、人々に支えられていたかのように語っています。

 あるたとえ話の中で、善意の人々が苦しむ人々に対して行った善行を「私にしてくれたことなのである」と語っています。(マタイ25・40)

 また、受難を直前にした最後の晩餐の席では、それまでイエスと苦楽を共にした使徒たちに、「あなたがたは、私が種々の試練に遭ったとき、絶えず私と一緒に踏み留まってくれた」と語り、まるで、弟子たちがイエスを支えていたかのように話しています。(ルカ22・28)

 神として全ての人の罪を担ったイエスは、人間として人々の助けを必要としていたようです。神としてのイエスの救いの御業(みわざ)は、同時に、多くの人々の支えによって実現したと言えるでしょう。

 こうして、私たちは罪深い者ですが、イエスの救いの御業の一端を担うことができるのです。
 イエスの模範に倣いながら、私たちも人々の支えとなることができますように。