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担い手

堀 妙子

今日の心の糧イメージ

 十字架の担い手としてのイエス・キリストを救い主と明確に言い切ったのは、キリスト信者ではない映画監督の(故)篠田正浩( しのだまさひろ)氏でした。
 私はかつて篠田監督にインタビューをしたことがあり、次のようにイエス・キリストを捉えていました。

 「キリストの場合は、死ぬまで民衆のなかで働いていましたから、リアリストでした。ユダの裏切りまで見通しているドライな部分があるわけです。ユダはユダで、イエスが神であることを知っていて、売り渡すわけです。ここには、夢想の入る余地がありません。だから、十字架上で人間の罪のために命を捧げることが宗教的行為として残るのです」。

 キリストの誕生も旅先の馬小屋、そしてエジプト逃避、ナザレへの帰還、子供の時から養父ヨセフから大工として仕込まれ、実直な大工として働いた後、時が来て、宣教のために30歳でナザレをあとにします。
 従兄弟の洗礼者ヨハネから洗礼を受け、その後、弟子たち12人とともに3年間、ガリラヤ湖周辺を巡る宣教の旅に出るのです。

 そして、ユダの裏切りによって、イエスは無実の死刑囚として二人の盗賊とともに、ゴルゴタの丘まで十字架を担っての道行(みちゆき)が始まります。

 十字架のもとには聖母マリア、イエスの愛した弟子ヨハネが佇み、他の弟子たちは逃げてしまい、師イエスを遠まきに見つめていました。

 イエスの神の子として人として生きた33年間は、空騒ぎに終わったのでしょうか。

 私たちキリスト者は皆、自分の十字架をとり、イエスの後に続く担い手として歩むように勧められています。

 この十字架が次の世代へのメッセージとなり、陸上競技の駅伝のように次の区間の走者に、やがて天国に至る愛のたすきを手渡す使命があるのです。