

最近、私は100歳までもう一息の96歳になり、担い手というよりも、むしろ担われ手になろうとしています。とは云え、何か担おうという気力と気迫は衰えるどころか、益々強く、勇気百倍となっています。
「寸陰、矢の如し」、いつの間にか100歳近くになりました。
しかし、人生はおもしろいことに、行動が気力についていけなくなったりします。
かつては、さまざまなことを担い、家族や社会のために自分なりに貢献してきたつもりです。今では、思うように物事が速くできなくなっていたり、体がテキパキ動かなかったりします。幸い私は家族とヘルパーさんや医療関係の方々に支えられていますが、この変化も、人生の自然の流れなのだと受け入れるようにしました。
聖書のガラテヤの信徒への手紙に「互いに重荷を担いなさい。」という言葉があります。(6・2)
これは、今の私の心に深く響く言葉です。ここには、「助ける」また「助けられる」という二つの意味が含まれているからです。人は常に強くいられるわけではなく、人生には担う時期もあれば、担われる時期も必ず訪れるのです。
そして「担う時期」と「担われる時期」がサイクルになって続いていくように思います。
私は現在、このサイクルの中で、かつて担っていた家族、特に娘たちに支えられています。家族や周りの人の優しさに包まれながらの毎日こそ、私の幸せです。担われる側になることは、甘えかもしれませんが、ある意味で、人との深いつながりの証ではないでしょうか。
周りの負担になりすぎない限り、この人生のサイクルの中で、感謝とともに自分なりに歩んでいきたいと常に思っています。