

久し振りの友達が訪ねてくると聞けば、嬉しくなります。駅からの道分かるかな? と聞くと、ナビがあるから大丈夫と応えが返ってきます。そのくせ予定の時間になっても、一向に現われません。待ちきれず電話を掛けると、ちょっと迷ったかな?との返事です。
ナビも電話番号で探すと時々違う場所へと誘導されます。山が見えますか、海はどっち?河を渡りましたかなど、周りの自然の目印を聞くのは一昔前の事です。
まわりはマンションだらけ、自動車道路は
ひと昔前は道が分からないと、途中の目印で判断します。ちょっと先に行って、見て来るから動かないで待っていて。動かれると道案内は余計歩いて疲れたものです。
今はスマホを片手にきょろきょろする人が多くなりました。道を聞かれることも少なくなりました。翻訳機とナビのついたスマホをもった外国人風の人も、見知らぬ路地に平気で入って行きます。道の尋ね方・教え方など学ぶ必要もなくなりました。
ところが、人生の歩みの道はそう簡単ではないのです。
挫折・失敗・失意からの立ち直りの道は?
失われた繋がり・交わりの回復は?
心の深みでの信頼や確信の安定は?
何よりも唯一の自分の人生が日々歩み向かう目標への道はよく見えず、不安と浅はかな日々に翻弄されることも多いのです。
先が見えない、現状に納得出来ない、見栄を張っても内心に虚しさが走る体験は誰にもあります。
そんな時「私は道である」と、人類の歴史の中で、そして今も呼びかける方の声に立ち止まり、どんな道ですかと問いかけたいものです。
多忙な現代に追われる私達も、ひととき立ち止まり、道を尋ねたい。たとえ十字架の道しるべであっても、です。