聖書の中に、とても寛大な心を持ったぶどう園の主人の話がある。(参 マタイ20・1~16)
夕方まで仕事が見つからずに困っていた労働者を雇って自分のぶどう園で働かせ、その労働者に1日分の給料を支払った主人の話だ。
当然、朝から働いていた人から苦情が出た。「なぜ数時間しか働いていない人に、自分と同じ一日分の給料を払うのか」ということだ。しかし、主人は「わたしのしたいようにさせてくれ」といって取り合わなかった。この主人は、夕方まで仕事が見つからなかった労働者と彼の家族が生活するために、どうしてもその金額が必要だとわかっていたのだろう。
この話が教えているのは、「よいことを始めるのに、遅すぎるということはない」ということだ。神さまは、この主人のように寛大な方で、最後に悔い改めた人にも同じように報いてくださる。たとえ短い時間であっても、よい行いをした人には、長いあいだよい行いをした人と同じ大きな愛で報いてくださる。だから、悔い改めるのに遅すぎることはないというのだ。
これは、わたしたちを愛してくれる家族や友人との関係にも当てはまるだろう。たとえば、長いあいだ家族を犠牲にして仕事に尽してきた人が、「これではよくない。残りの人生は、家族をもっと大切にしよう」と決心したなら、家族はきっと、大喜びでその人を迎えてくれるはずだ。初めは疑われても、誠意を尽しさえすれば「いまさらそんなことを言っても手遅れだ」といって拒絶されることはないだろうと思われる。どんなに遅くても、悔い改めて行動を変えるなら、わたしたちは家族の愛というかけがえのない報いを手に入れることができるのだ。
悔い改めるのに、遅すぎるということはない。さあ、始めてみよう。