聖書の中で、イエスは弟子たちに向かって言われました。「天の国はここにある、あそこにあるというものではない。天の国は、あなたたちの中にあるのだ」(参 ルカ17・20~21)
青い鳥を探しまわったあげくの果てに、自分たちの身近にいたことに気づいた人たち。希望についても、同じことが言えるのではないでしょうか。求める者には与えられ、探す者は見出すのです。それも思いがけないところに。見つけるためには、希望を失う辛い経験が必要であり、見出す努力が求められます。
イエスが十字架上で死んだとき、弟子たちは希望を失いました。エマオに向かう二人の弟子たちの姿が、そのことを示しています。
「イスラエルを救うのは、この方、イエスだと望みをかけていたのに」と、相手がイエスその人だとも気付かずに、二人は暗い顔をして、共に歩む旅人に語りかけました。(参 ルカ24・21)
その二人に向かい、イエスは、ご自分について聖書に書かれていることを話してやり、いっしょに泊まり、食事をともになさいました。食卓でパンを取り、賛美を捧げて分けておやりになったその時、二人の弟子は、この人こそが"希望の人"だったことに気づくのです。
「世の終わりまで、あなたたちと共にいる」(マタイ28・20)という約束を、イエスは守っていてくださいます。私たちが打ちひしがれている時、「わたしは復活してここにいる」と、力強く宣言し、証し続けていてくださるのです。
希望であるイエスを、思いがけないところに見出すためには、私たちも、人生の道を共に歩む人々に手を差しのべ、食物を分かち合う心を持ったらよいのです。その時イエスは、「あなたの希望、私はここにいる」と、ご自分を示してくださることでしょう。
*アーカイブスを再収録しました