お湯につかるとホッとします。寒さで縮こまっていた体がほどけていき、安らいだ気持ちになります。もしかすると、まだ生まれてくる前のお母さんの胎内での安らかな記憶や感覚が呼び覚まされるのかもしれません。
詩編131に次のような一節があります。
「神よ、わたしはおごらず、高ぶらず、偉大なこと、身にあまることを求めようとしない。心静かにわたしは憩う、母の手に安らぐ幼な子のように」。
聖堂に入り、長椅子に腰掛け、ご聖体の前でゆっくり深く呼吸をすると、とても落ち着いた感覚に包まれます。詩編のことばのように、まさに母の手に安らぐ幼な子のような感じなのかもしれません。母の胎内、母の手は偉大です。
忙しさで目が回り、頭と心がざわざわしている時も、神様のみ前でゆっくり呼吸すると、騒がしかった細胞の一つひとつが少しずつ静まっていくような感じがします。なかなか静まらない時もあれば、すっとその静まりに入っていく時もあります。悲しみや憤り、心配や不安でいっぱいの時は自分の感情に振り回されてなかなか静まりません。でも、そのような時も、ありのままの貧しい私、未熟な私を差し出し、温かな神様の手の中に入れていただくことで、また、明日からの勇気や力をいただいている感じがします。
「イエスは人里離れたところに行き祈っておられた」、という記述を聖書の中に幾度となく読むことができます。イエスの受難と十字架上での死を黙想する時、イエスは大きな悲しみ苦しみの中にあっても、母の手にある幼な子のような全幅の信頼のうちに、おん父神様にすべてを委ね、束の間の安らぎの祈りの中で、信じる力、希望する力、愛する力をいただいていたのではないかと思うのです。