目を閉じ、口と耳をふさぐと、外部からの情報が遮断され、自然、沈黙状態となり、自己反省の貴重な機会となります。
多種多様化した社会では、人事交流をはじめ、情報交換は、ますます盛んで、沈黙の機会は、極度に減少し、沈黙自体の存在が危うくなってしまうように思います。
社会の進歩発展とともに、主義・主張、弁論・議論がますます盛んになると沈黙は減少し、消滅します。
では、沈黙はどのような場合に発生するのでしょうか。例えば、イエスかノーかを瞬時に返答できない場合に、沈黙が生じます。熟慮のための時間かせぎの沈黙と言えそうです。また、相手を無視するための沈黙もあると思いますが、これとは逆に、相手を認めるための沈黙もあります。「黙認」です。これは極めてデリケートなケースであります。
一方、自己反省と瞑想のための沈黙もあります。朝、目覚めた時の一瞬、あるいは就寝前のひと時、自己反省とともに新しい抱負と希望を抱こうと瞑想に耽ります。一日の生活の重要な一瞬であります。一瞬とは言え、少なくとも20分は必要で、瞑想開始からおよそ10分で瞑想の最高潮に達し、賢者の如き「牟尼」の境地に陥ります。牟尼の境地を心に刻みつけたあと、その余韻とともに次第に我に帰ります。
この一瞬の体験が非常に大切で、この一瞬が一日のスタートであり、一日を支配します。よきスタートは、よき一日を意味します。朝の瞑想は一日の生活を支配します。
この瞑想とともに、さらに霊的な力を与えてくれるのは、「射祷」という、瞬時瞬時の強力な短い祈りであります。年末の多忙の中、この祈りを大いに活用し、より豊かな霊的生活をおくりたいものであります。