その時『わたし』は

黒岩 英臣

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 わたしは実は、男3兄弟の長男です。妻の方は、女3姉妹というわけで、よくもまあ、こんなに偏るものだと感心してしまいます。

 偏るといえば、わたしは、父の時も母の時も、臨終に立ち会えなかっただけでなく、葬儀にも本来なら長男として喪主を務めるものなのでしょうが、なにしろ欠席せざるをえなかったのでした。こんな事ってあるか、と言うくらい、丁度葬儀とわたしのコンサートの本番が重なったのです。

 そういうわけで、妻がわたしの名代を務め、喪主は弟が一切を引き受けてくれ、わたしは遠くから祈りをもって参加するにとどまったのでした。

 

 思い返すと、わたし達夫婦の結婚式の当日、婚約者だった妻が時間が差し迫ってもなかなか到着せず、わたしはもしかして、土壇場で妻がわたしとの結婚をやっぱりやーめたなどと思い始めたのではないかと気が気でなく、控室と道路とを行ったり来たりと、もう心配でたまりませんでした。

 それなのに、ある目撃者の証言によると、「レストランでパクパク召し上がっていらっしゃったわよ」との事でした。

 そんな心配もつらいので、せめて妻の葬儀の喪主だけは務められるように、今後一切の演奏活動は引退しようかなどと思うのです。(ハハハ・・、)。

 冗談はさておき、この先、確かなことは、主イエスが再び来られるという事です。「人の子が、大いなる力と栄光を帯びて、天の雲に乗って来るのを、人々は見る」と聖書は記しています。(マタイ24・30)

 かつて、救い主として来られた主が、全ての人を裁く方として、再び来られるのです。

 その時はわたしも、聖書の最後と一致して、心からマラナ・タ、主よ、来て下さいと言いたいものです。(参 黙示録22・20)

その時『わたし』は

遠山 満 神父

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 「人は生きてきたようにしか死ねない」と言われます。

 私達が、日々何を選択しながら生きているのか、その集大成が死の時であり、その時、「自分は幸せな人生を送った」「自分はやるだけやった」と言えるような人生を送る事ができたらと思います。

 それでは、自分は何を選択しながら生きてきたのかと考える時、洗礼を受ける前と後では選択の基準が変わったと言う事が言えます。洗礼を受ける前は、自分の思い、感情を基準に物事を選択してきました。それは、自己中心的な選択、また感情を基準にしていましたので、移ろい易い選択だったとも言えます。

 大学生の頃、教会に通うようになり、自分の思いではなく、神様の思いに従って生きる生き方がある事を知りました。それは、自分の思いよりも、神様の思いを選択しながら生きる生き方です。そのような人生を送っている人達の、幸せそうな姿を目の当たりにしながら、自分も受洗の恵みへと導かれました。

 受洗後、自分の思いを選択するか、神様の思いを選択するか、その狭間で葛藤しながら歩む人生が始まりました。自分の思いを選択する生き方は、その場は幸せそうでも、しばしば刹那的で、時の経過と共に、その幸せが儚く消えてしまう、そのような状態へと私を導きました。逆に神様の思いを選択すると、その選択の当座は非常に苦しい思いをするとしても、時の経過と共に、「あの時、あの選択をして良かった」と言う思いがいつまでも心に残り、私の心は喜びに満たされました。

 自分の思いよりも神様の思いを選択しながら生きて行く事が、本当の幸せに至る道なのだと、今強く感じています。

 神様に信頼し、神様の思いを、これからも選択しながら生きて行きたいと思います。


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