その時『わたし』は

岡野 絵里子

今日の心の糧イメージ

 心の奥に折りたたまれている記憶をそっと広げてみると、そこには、まだ小学生だった時の光景が消えずに残っていて、細部まで生き生きと鮮やかであることに驚く。

 私にとって、小学校の入学は新しい世界への大きな入り口だった。学校に通い、勉強をする小学生になったことが誇らしく、自分はもう子どもではないとさえ思っていた。その辺りが本当に子どもだったわけで、今思うと恥ずかしい。

 そんな幼い自負心が、入学2日目には、早くも危機を迎えた。教室の外の廊下には、壁に上下2列のフックがついており、生徒は自分の出席番号の記されたフックに、運動靴をいれた布袋をかけておくことになっていた。だが、私の場所には、すでに誰かの靴の袋がかけられていたのである。

 たったそれだけで、私は泣き出してしまった。涙を拭いていると、廊下に遠慮がちに立っていた一人のお母さんが「どうなさったの」と近づいて来てくれた。その誰かのお母さんは優しく、両方の袋に書かれた名前と出席番号を読んでくれ、間違えた子の袋を正しい場所に戻してくれた。

 私はああ、そうすればよかったんだ、と学んだ気持ちになったが、それ以上に、子どもの背丈に体をかがめ、世話をしてくれた人の優しさが身に沁みた。その時、6歳の子どもは、この新しい世界には、切り抜けて行くべき困難や課題が沢山あるらしいこと、だが本当に困った時には、助け手が現れるということを悟ったのだ。

 その日から1年生の生活が始まった。革のランドセルが教科書や漢字ノートを入れ、日々を運んだ。困難は本当にあったけれど、天国から最強の暖かい助け手に見守られていると信じていたから、幸せな子どもだった。

その時『わたし』は

植村 高雄

今日の心の糧イメージ

 何が契機で人間は信仰心を持つのだろう。

 世界中の神話、民話、色々の宗教が大問題として数千年も思索している「神との出会い」の問題です。

 さて、子供時代、牛に追いかけられた恐ろしい体験があります。その時は慌てふためいて、その現場から逃げ出します。牛だけでなく、具合の悪い事に遭遇しますと、私は時々逃げ出します。その体験から私はなんと勇気のない人間かと悩んだり、場合によっては卑怯者だと自己嫌悪におちいります。

 高校1年生の時、人生が嫌になりました。大人に相談するのも照れくさく、一人悶々として生活していましたが、ふと、「カトリック教会」という看板が目に入り、学校の帰りに、突然訪ねますと、玄関に赤い鼻をした恐ろしそうな外国の人が出てきました。初めて見る外国の人なので逃げ出しました。その恐ろしい顔をした人は神父さんだ、と後で知ります。玄関を飛び出そうとしましたが、肩を掴まれたので、立ち止まりますと、美味しいケーキとコーヒーをご馳走するから、暫く休んでいきなさい、と言われました。お腹がすいていたので、その気になりました。 私がカトリックと出会った瞬間です。

 難しい勉強や嫌な出来事から逃げ出す自分に随分と悩んだ青春時代でしたが、社会人となりましても、その傾向は変わりません。その挙句の果てに自分を劣等感や罪悪感に追い込んでいくのです。

 あれこれの思い出で、その時わたしがとった行動は失敗だ、と長年考えていましたが、案外、解釈を変えると、その失敗が今の私の幸福の遠因となっている事例が山ほどあります。

 逃避したお陰で死ぬような危険を避けられた事もあります。暗い想い出ほど、体験の解釈を変えると、今まで気づかなかった幸福がそこにあるようです。


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