その時『わたし』は

片柳 弘史 神父

今日の心の糧イメージ

 時の流れを早いと感じるか、遅いと感じるかは、わたしたちの心にかかっている。楽しい仲間たちと過ごす時間はあっという間に過ぎ去り、病の痛みに耐えながら過ごす時間はいつまでも終わらないように思える。時の流れと心のあいだには相関関係があるのだ。

 早い遅いだけではない。時間には、密度の濃淡があるようにも感じられる。単純な作業を黙々とこなしているような時間は、何時間過ごしたとしても心に何も残らない。それに対して、大切な誰かと真剣に話して過ごした時間は、たとえ短い時間でもずっしり重く心に残り、ときには人生を変えてしまうことさえある。感覚を研ぎ澄まして世界と全身で向かい合うとき、心を隅々まで活発に動かすとき、時間の密度はどんどん上がってゆく。

 祈りの中で神さまと向かい合うときにも、同じことが起こる。聖堂で心を鎮め、他のすべてのことを忘れてただ聖書の言葉と向かい合うとき、時間の密度はどんどん上がってゆく。天から降り注ぐ恵みによって心が満たされるとき、時間もやはり何ものかによって濃密に満たされてゆく。時の流れの中に、神が宿ると言ってもいいかもしれない。

 そのような時間を過ごした後には、心を覆っていた曇りがすっきり取り払われ、全身が力で満たされているのを感じる。何があったのか尋ねられても、うまく答えることはできない。ただ、濃密な時間の流れの中で神と共に過ごした。神が時の流れを満たし、わたしの心を満たして通り過ぎて行った。そんな感覚だ。そんな時間を過ごしたあとには、決まって人生が大きく動き始める。時間の流れの中で、わたし自身が大きく変えられるからだろう。心を研ぎ澄まし、神が宿る時の到来を待ちたい。

その時『わたし』は

崔 友本枝

今日の心の糧イメージ

 夫の母と姉を教会に初めて連れて行ったのは8月15日のミサだった。最も大きな聖母マリアのお祝い日だ。

 その頃の私はキリストについて言葉で伝えることはしなかった。母も姉も熱心な仏教徒だったからだ。どうしてこの日に限って教会に誘ったのか自分でも不思議だ。ただ、家族が神さまを知って幸せになれるようにと夫と一緒に、ロザリオを何年も祈っていたという背景はある。ロザリオは、神が聖母マリアに与えた偉大な恵みを讃える祈りで、悪の力を打ち砕く力強いものだ。

 さて、その後、母は私たちにとても会いたくなった日に、教会に行ってみようと思い立った。教会に行けば私たちに会えるような気がしたという。

 母はそれから1年間毎週一人で教会に通い続けた。その様子を見ていた神父様は、3回ほど勉強会をしただけで母に洗礼を授けてくださった。

 わずかなお祈りしか知らない母だったが、2000年前にイエス・キリストさまが私たちのために十字架上で罪を背負ってくださったことを信じた。

 母は明るくなった。教会に通うようになってから救われたと感じると言う。その後もさまざまな試練はあったが、祈ると必ず乗り越えることができた。

 私たちは一瞬ごとに、さまざまな選択をしているが、誰かを教会に連れて行くという選択は、その方の人生を変えると思う。その先は神さまに任せるといい。

 私たちはまさか母がたった一人で1年間も教会に通うなんて想像もしなかった。それは、神さまが母の心を動かしたとしか言いようがない。

 

 今では、お正月に会うと一緒に聖書の話をしたり、ロザリオを祈ったり、神さまを感じて嬉しかった出来事を分かち合えるのでとても楽しい。本当の親子になれた気がする。


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