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子どもの祈り

三宮 麻由子

今日の心の糧イメージ

 私の母方の祖父は、正月に親戚が集まると、まず神棚にお神酒と榊を供え、パンパンと柏手を打って拝んでから、一同に「はい、みんなも拝みなさい」と促していました。

 私たち子どもは、言われるままに柏手を打ち、手を合わせました。

 毎年色んなことをお願いしましたが、大学受験のとき、上智大学を受けることになった私は、神棚の前で、はたと困ってしまいました。試験に受かりますようにとお願いしたいのですが、行き先はカトリックの学校です。そこに受かるようにと、神道の神様にお願いしても良いものなのか。思わずこの疑問を口にしたところ、親戚一同、即答しました。

 「いいのよ、試験に受かることは、どの学校でも同じなんだから」

 なるほどね。ということで、合格祈願をした私は、念願のソフィアンになったのでした。

 子どものころ、祈りは願いとほぼイコールだった気がします。「○○しますように」、「○○となりますように」と祈ると、簡単だし、自分の気持ちが整理できるからではないでしょうか。

 ところが大人になると、祈りの中に願いが多く入る点は以前と変わらないとしても、願いが一つの方向だけに決まらなくなったり、願いにとどまらず、「どうしたらいいの?」、「これは、どうなっているの?」、「真実はどこに?」といった問いかけも出てくるものです。

 子どもの祈りと、大人の祈りの違いは、こんなときに神の答えを待つ体制で祈れるかどうかかもしれません。待てるときばかりではないけれど、ともかく神の返事を聞く体制になるということです。

 これができたとき、私たちの祈りは、子どもの祈りから、成熟した「神の子の祈り」へと、進化していくのだろうと、私には思えています。