そこで今も驚いていることが、彼らのうち、少なからぬ人が大学の教員になっていることです。私は、大学の教員でしたが、同時に神父でもありましたので、学者でも研究者でもなく、単なる教育者や伝道者にすぎませんでした。にもかかわらず、わたしの講座の出身者の多くが、大学や学校の教員になっているというのは、彼らの言によれば、わたしの話し方や教育論が、当時、若者であった彼らの気持ちを奮い立たせ、教師となって、若い人たちを教育しなければという思いに駆り立てたというのです。
これもまた、子は親の姿を見て育つではないが、教師の姿が生徒たちの幾人かでも、教師という職業に就かせたとすれば、わたし自身はそれを全く意図しなかったとしても、子育ての実りといえるのではないでしょうか。
講座クラスの生徒たちに聞くと、「越前先生のような先生に自分もなりたかった」という声を聞いたことがあります。
わたし自身は、拙い伝道者や教育者にすぎませんが。