思い返してみると、わたしは独身ながら、時々、何らかの形でおかあさんの心をもって接していかなければならない出来事に遭遇してきた。わたしは母親のもつ、「わが子」「うちの子」という、悪く言えばべっとりとした身びいき的な感覚は持っていない。独身だから、生きていく上での判断、決断は自分でしなければならない。だからこそ、出会った子どもたちに何が必要で、どうしなければならないかを、瞬時に判断できることが多い。私にできることは身を投げだして関わってきたつもりだ。
また、わたしの仕事のひとつだが、子どもたちのための週刊誌の編集作業に携わっている。子どもたちに直接に会うことはなくても、かれらの止まり木となり、一休みをして明日に向かって飛んでいけるようなメッセージを送っている。同時にその中で、子どもたちと関わる、若者からお年を召した方々にも、心の渇きをいやすメッセージを発信している。
マリアさまにならって、日々、わたしなりに、いつくしみのムーブメントを起こす、透明人間のように見えない「あなたたちの『おかあさん』」になりたいと願っている。
「イクメンパパ」が多くなったとはいえ、子育てに関してはお母さんにどうしても比重がかかってしまう。それだけわが子への影響力も大きくなる。
「あなたは素直な子ね」というお母さんの一言によって、子どもは素直な自分に出会うことができる。そして子どもは、そのことば通りに自分を同一化させようとする。これが子どもの成長における大事なポイントであろう。否、人としての成長におけるモデルを、子育ての過程のなかに見ることができるのではないだろうか。
反対に、「あなたはダメな子ね」の一言で、ダメな自分に当てはめていく子どもになっていく。子どもの足りないところを指摘する子育ては、「お母さん」という言葉からイメージされる温かさ、優しさには程遠い内容ではなかろうか。
イエスさまのお母さんは、マリアさまである。そして、わたしたちのお母さんでもある。