私たちのお母さん

服部 剛

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私達が結婚した頃、妻の母は既に他界していました。長く看病をしてきた妻は、「母をきちんと看ることができなかったのでは」という自責の念に苦しんでいました。私達が出逢う前、私の職場の老人ホームに通っていた妻の父に、家族をテーマにした自作の詩集を贈ったところ、妻も読んでくれ、後日、感想の手紙を送ってくれました。そこには、(母の死後、哀しみを拭えずにいましたが、家族の温かな交流を描いた詩を拝読、頁を捲っている時に、世を去った母の「私とあなた、楽しく過ごせたじゃない。悔いることは何もないのよ」という朗らかな声が、確かに聴こえました)とありました。母が娘を想う深い愛が不思議なほど強く妻の心に届いたようでした。

いま妻は、重いてんかんを患うダウン症をもつ息子の子育て、病の実父の介護に加え、収入の不安定な私を支えるため仕事もこなし、本当によくがんばってくれています。私も不器用ながら妻を手伝おうと努めています。そんな中、実の母の存在はありませんが、妻を実の娘のように気にかけてくださる方々の愛が、妻の支えとなっています。手作りの食事を届けてくれる方、妻の疲れた心に寄り添ってくださる方、温かい励ましのお手紙をくださる方、祈りで支えてくださる方など。そのお一人おひとりに、妻は心の中で(お母さんありがとう)と語りかけ感謝している、と言います。

母という言葉に、結婚する前年に亡くなった私の祖母が、その晩年、「あなたのお嫁さんがみたい」と、私に言ったことをなぜだが思い出します。私の祖母も妻の母も、私と妻が出逢えるように天から働きかけてくれていたのでしょうか。目には見えない慈母の愛を思い、支えられ、暮らしている今日この頃の私達です。

私たちのお母さん

越前 喜六 神父

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わたしたちのお母さんといえば、カトリック信者のわたしは、すぐ聖母マリア様のことを思い出します。救い主イエス様のお母さんのことです。

神さまは、わたしたちにとって、すべてにおいてすべてでいらっしゃいますが、と同時に、きわめて個人的な存在でもあります。

ということはどういうことかといいますと、私たちは皆、母親から生まれてきますから、父親も大切ですが、それよりもっと大事な存在は母親だとわたしは思っています。けれども、わたしの母は、わたしが幼児のときに亡くなりました。

成長するにつれて、信仰を得たわたしは、神さまを母親と考えるようにしました。しかし、母親と考えると甘えたい気持ちが起こり、父である神と考えなければ祈ることができないので、困惑しました。

そうこうしているとき、子ども向けの本で、イエスと母のマリアの物語を知りました。そのとき、神さまは、わたしたち母のいない子どもや人々のために、マリア様をお母さんとしてお与えになったことを知りました。そして、そのマリア様は、主イエス・キリストのお母様でもありますので、神の母とも称えられています。

こうした聖母マリア様が、神である父のほかに与えられているわけですから、わたしたちは喜んで、マリア様に甘えることができます。

わたしたちカトリック信者は、神の母、聖マリアをこよなく敬い愛しています。ですから、「アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、主はあなたとともにおられます。あなたは女のうちで祝福され、ご胎内の御子イエスも祝福されています。神の母聖マリア、わたしたちのためにお祈りください」と唱えています。


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