「あら、ヒヨドリの子供」
と私たち三人はほっこりした気持になりました。
するとそのヒヨドリが、母の背負っていたリュックに止まって、ヒーヨ、ヒーヨと鳴きはじめたのです。
「どうしたの? よしよし」
母が声をかけると、それに応えるようにヒーヨ、ヒーヨ。怖がらせないように、母は身動きせず静かに語りかけていました。
「困ったわねえ、動けないわ」
父と私は、これまた雛を驚かさないように声を立てずに大笑い。一頻り母に甘えてから、小鳥はハタハタと羽音を残して飛び立っていきました。
母の優しさというものは、動物の種類を超えて通じるのかもしれません。それほど普遍で深いものなのでしょう。
そういえば、盲導犬の赤ちゃんたちに母犬が乳を飲ませているのを見たとき、私は自分の母も私をこうして受け止めてくれていたのだと突然思い、自分の命が裸にされたような、ドキリとする気持になりました。
それでも、子供はいつか独り立ちし、どんなに偉大な母にもどうしても助けられない問題と戦っていきます。あのヒヨドリの雛のように。さまざまな事情から、母の温かさを経験できないまま巣立つ人もいます。
母を思うとき、自分の立ち位置を問い返される気がして、襟を正す私なのでした。
マザーの元には、毎日、世界中からたくさんの人々がやって来た。マザーと出会った人が口を揃えて言ったのが、「わたしこそ、マザー・テレサから世界で一番愛されている」ということだった。不思議なことだが、たった5分立ち話をしただけという人でも、「わたしこそ、マザー・テレサから世界で一番愛されている」と言うのだ。
マザー本人はこう言っていた。「たくさんの人がわたしのところにやって来ますが、わたしにとっては、そのとき目の前にいる人がイエス・キリストであり、わたしのすべてです」。
確かにマザーは、やって来るすべての人を、自分にとって世界で一番大切な人として受け入れる人だった。その人と出会えたのがうれしくて仕方がないというような、心の底から湧き上がる笑顔。キラキラと輝くまなざし。相手の言葉を一言も漏らさず聞こうとする態度。そのすべてがわたしたちに、「あなたこそ、わたしにとって世界で一番大切な人」と無言のうちに語りかけていた。相手のために自分のすべてを差し出す人。相手をありのままに受け入れ、限りない愛で包み込む人。それがマザーだった。
自分を世界で一番大切にしてくれる人。それこそ、「お母さん」の定義と言ってもいいだろう。マザーと会ったことがある人は、彼女が世界中のすべての人の「お母さん」だったことを知っている。