私たちのお母さん

末盛 千枝子

今日の心の糧イメージ

私のデスクの上のパソコンの隣に粗末な服を着た素朴な、まるで田舎娘という感じの像があります。どこかフランスの修道院で造られたものですが、目は真っすぐにこちらを見ているけれど、両腕は体の両脇に静かにおろし、手には何も持たず、広げたままです。それだけの姿ですが、よく見ると裏に貼られた小さなラベルに「受胎告知」と書いてあり、それに気がついた時、本当に驚きました。私の中に、そういうことだったのか、という思いがわき上がりました。それは、マリアさまが全てを受け入れるということがそういうことだったのかと言う、今更のような思いと、受胎告知をこのような形で表現しようとした、名も知らぬ修道女への心からの共感の思いでした。

マリアさまは突然身に憶えがないのに、神の子の母となると告げられ、それから、いくつも、いくつも、不思議な、解せない辛いことに出会い、その度に自分には解らなくとも、それを受け入れ、心の中で考え続けておられ、最後には十字架刑になる我が子を見守ることにまでなったのです。あの方が、あのように解らないことを受けいれ、じっと考え、思いめぐらし続け、神様にゆだね続けたことを、教会はとても大切に思ってきたのではないでしょうか。「私たちのお母さん」とはそういう方なのでした。教会はそこに、信仰というものの原型を見て大切にしてきたのではないでしょうか。そのように考えると、身の回りのいろんな難しいことも、どのように考えていけばいいのか、なんだか解りやすくなるような気がします。

私たちのお母さん

熊本 洋

今日の心の糧イメージ

多くの人間関係の中で、母と子の関係ほど、特別緊密、繊細デリケート、かつ貴重なものは、ありません。母親なしに子の存在はなく、子にとって母は、この世における最初の出会いの人であり、赤子の前途にかかわる唯一貴重な人間関係のスタートとなります。それだけに、社会的にも、注目され、重要視されています。中には、事情があって、母親がいなくなったという赤子もいますが、母に代わる関係者の深い愛情と気遣いによって育まれます。

子供が自然に、「ママ!」とか「お母さん!」と発する母親への呼びかけほど、懐かしさ、甘え、信頼、尊敬、従順、懇願など、言い尽くせない、あらゆる感情や深い思いが込められた言葉はないように思います。

辞書によれば、「お母さん」とは、子供が親しみと敬意をこめて母親を呼ぶ言葉。京都など上方の中流以上の家庭の子供が使っていたもので、明治末期の国定教科書に使われて一般に広まりました。「お母さん」の語源は、武士の母や妻を意味する「御方様」。この言葉を使って、夫が妻を「かたさま」というようになり、子供がこれをまねて「かかさま」「かあちゃん」「おっかあ」などと呼び始め、結局、「お母さん」に落ち着いた次第。ちなみに、この言葉は本来、二人称の呼びかけ言葉、第3者に自分の母を紹介する時は、あえて「母」と言い換える"ゆかしさ"も持ち合わせたいものです。

ところで、イエス・キリストの母は、言うまでもなく、聖母マリア。カトリック教会では、聖母を崇敬し、聖母を教会の母、広く人類の母であることを強調しています。従順、信仰、希望、懇願と賛美を神に捧げる、完全祈りの人、この聖母のみ心に合わせ、ともに人々の平安を祈りたいものであります。


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