友好

古川 利雅 神父

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「おはようございます。」 朝、誰かと顔を合わせ、出会ったときの第一声・・・。こちらの幼稚園での朝のご挨拶は「先生おはようございます。お友だちの皆さんおはようございます。」先生にご挨拶・お辞儀をして、両隣のお友だちとご挨拶・お辞儀をしながら握手をします。

幼稚園で一緒に過ごし、生活する男の子、女の子が、自分にとって「お友だち」。相手にとっても「お友だち」。言葉に出して、意識して、互いの手と手を握って、確認しあい、1日が始まってゆきます。もちろん時には喧嘩することもあるかも知れません。そんな時は「ごめんなさい」をして仲直りし、またともに過ごす。その様な中で段々に友情が育まれてゆくのでしょう。

大きくなった私たちはどうでしょうか。子どもの頃、色々な人と「お友だち」になることは易しかったかも知れません。喧嘩をしても「お友だち」との仲直りもし易かったかも知れません。でも年を取るにつれて次第に難しくなり、気付くと孤立して「ぽつん」と1人になっていないでしょうか。色々な方と親しく接している様に見えても、実は無難に接しているだけだとしたら、寂しいですね。

「お友だち」。言葉に出さなくても、握手しなくても、心の中で相手の方のことを大切に想い、受け止めて、接していくなら、良い関係のうちにその方と過ごしてゆけるのではないでしょうか。たとえ最初のうちお互いに苦手だったとしても、少しずつ、少しずつ、良い関係へと変えられていくでしょう。

子どもたちが、挨拶をして、手を握って、次第に沢山のお友だちが増えてゆく。そんな光景を思い浮かべながら、ふと気がつくと沢山の人と手をつなぎ、ともに歩んでいる。そんな私、私たちになってゆければ良いですね。

友好

黒岩 英臣

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小学校時代の同級生たちは、つい数日前も、私の指揮するコンサートに大挙して来てくれました。何十年を経てもなお、心おきなく付き合える関係は、本当に何ものにも代えがたいですよね。

それより遡って、幼稚園時代の初恋の人とも、今も親しい友人です。

また、時代を下がってくれば、十年の修道生活を共にして、今は司祭になっている仲間たちとは、切っても切れない、"深く濃い血で結ばれた"とでも言いたい、もはやこの世のもの以上と思えるような友情で結ばれていると感じています。

とはいうものの、私自身には、こういった友情関係、友好関係を求めてゆく、つまりそういった関係になれるように具体的に行動するという、ある側面が欠けています。若い時からそれは、私の劣等感になっていました。

特に、身近に息子とその関係者の人々をみると、私には到底できない、或いは、とても思いつかないような事をまず思い、次いで具体化して行くのです。

まず「思う」の方ですが、何とも親切で心があるのです。次いで、「具体化」ですが、簡単な心遣いからびっくりするような歓待まで、様々ですが、誰に対しても兎に角、温かさを届けるのです。

ところで、私はこの番組で折にふれて「主イエスが来られ、神の国が来た!と宣言されて以来、私達の生きるこの世のあり方、論理は真っ逆さまになった」というお話をしてきました。だからこそ、悲しんでいる人、迫害されている人は幸いなのです。

さて、私にとって、今も解りづらい聖書の言葉があります。「不正まみれの富で友人を作りなさい」と。(参:ルカ16・9)

もし私に富と言えるほどのものが出来た場合、それを使って神様から友人と呼んでもらえるように盡す、この事を指しているのでしょうか・・。

 

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