
大きくなった私たちはどうでしょうか。子どもの頃、色々な人と「お友だち」になることは易しかったかも知れません。喧嘩をしても「お友だち」との仲直りもし易かったかも知れません。でも年を取るにつれて次第に難しくなり、気付くと孤立して「ぽつん」と1人になっていないでしょうか。色々な方と親しく接している様に見えても、実は無難に接しているだけだとしたら、寂しいですね。
「お友だち」。言葉に出さなくても、握手しなくても、心の中で相手の方のことを大切に想い、受け止めて、接していくなら、良い関係のうちにその方と過ごしてゆけるのではないでしょうか。たとえ最初のうちお互いに苦手だったとしても、少しずつ、少しずつ、良い関係へと変えられていくでしょう。
子どもたちが、挨拶をして、手を握って、次第に沢山のお友だちが増えてゆく。そんな光景を思い浮かべながら、ふと気がつくと沢山の人と手をつなぎ、ともに歩んでいる。そんな私、私たちになってゆければ良いですね。

とはいうものの、私自身には、こういった友情関係、友好関係を求めてゆく、つまりそういった関係になれるように具体的に行動するという、ある側面が欠けています。若い時からそれは、私の劣等感になっていました。
特に、身近に息子とその関係者の人々をみると、私には到底できない、或いは、とても思いつかないような事をまず思い、次いで具体化して行くのです。
まず「思う」の方ですが、何とも親切で心があるのです。次いで、「具体化」ですが、簡単な心遣いからびっくりするような歓待まで、様々ですが、誰に対しても兎に角、温かさを届けるのです。
ところで、私はこの番組で折にふれて「主イエスが来られ、神の国が来た!と宣言されて以来、私達の生きるこの世のあり方、論理は真っ逆さまになった」というお話をしてきました。だからこそ、悲しんでいる人、迫害されている人は幸いなのです。
さて、私にとって、今も解りづらい聖書の言葉があります。「不正まみれの富で友人を作りなさい」と。(参:ルカ16・9)
もし私に富と言えるほどのものが出来た場合、それを使って神様から友人と呼んでもらえるように盡す、この事を指しているのでしょうか・・。