友好

服部 剛

今日の心の糧イメージ

1人の人間を理解するということは、本当に難しいことです。それは、親子・夫婦・友人・上司等いかなる関係においても、時に誰もが頭を悩ませることです。

イエスは聖書の中から、私達に〈互いに愛し合いなさい〉と、語りかけます。(ヨハネ13・34)ですが、世間を渡る上で〈どうしても愛せない・・・〉と思ってしまう人と出逢うことがあり、そんなときは私自身も、イエスの教えを生きることのできない弱さを感じます。そんな自分の弱ささえもまるごと差し出して祈ると、目には見えないイエスの存在が、〈私はあなたを裁かない・・だから、あなたも人を裁かないでほしい〉という言葉にならない願いが、何処からか聴こえてくる気がします。

この社会で人々が暮らしていくために、現実的には法律やルールが必要不可欠ですが、イエスの深い次元のまなざしは、いつも人々の魂の領域に触れようとしています。もし、私達の心にも宿る〈イエスのまなざし〉を誰かにそそぐならば、今までとは少し違った視点で、その人を密かに想うことができるかもしれません。

イエスは今日も、聖書の中から語りかけています。〈もう、私はあなた方を僕とは呼ばない。私はあなた方を友と呼ぶ。あなた方が私を選んだのではなく、私があなた方を選んだ〉と。(ヨハネ15・15~16)その音の無い御言葉に励まされた人は、もう一度、自らの心を奮い起こし、日々の場面の中へ歩んでゆけると思うのです。

およそ2千年前、この地上に生きたイエスは〈地上の天〉を夢に見て、心の底から信じていました。その想いは時を越えた風となり、この世を吹き渡りーー目の前の誰かを大切な友として、その瞳を互いに合わせるとき、人と人の間に〈地上の天〉は、現れるでしょう。

友好

植村 高雄

今日の心の糧イメージ

大学時代、怒り狂う事では天下一品という学友・A君がいました。今は何とも柔和で「友好」を一番大事にする人物に豹変しています。

実はこの「怒りと友好」の相関関係は、心理療法の教科書に書いてあります。その教科書通りの人生を歩んだ人物なので、私の宝物でもあります。

旧約聖書の詩編やギリシャ神話を読むと、その中で人々が自分の不安、怒り、鬱、錯乱をどう乗り越えるか、必死であがいているのが読みとれます。

さて、心理療法の教科書によりますと、不安と平安、怒りと友好、鬱と幸福、錯乱と統御を同じものと解釈しています。不安感が解決した後のほっとした心を、平安感と定義して、来談者の心を落ち着かせます。「怒り」が解決した後の心を、「友好」と定義し、欝が解決した心を、幸福、錯乱が解決した時の心境を、統御感と定義して治療を進めます。こうした進め方は、多くの精神病理学者の研究の賜物なのです。

誰にでもある体験ですが、今まで大好きだった学友・A君が自分を裏切り、長い間の友好的な感情が怒りに激変します。数年後、ふとした契機で、私の早とちりからの大きな誤解だと気付き、長い手紙を書いて詫びますと、会いたいという電話が入ります。数年ぶりでお酒を飲みながら語り合う内に、その学友の、実に懐の深い友情と優しさに涙しました。

怒りが大きいほど、その和解による友好的な感情は大きいと言われています。不安が大きいほど平安感も大きく、鬱が深いほど幸福感は大きい。錯乱が大きいほど、その後の統御感は本物となります。

このように怒りの状態が深くても、この複雑な人間の心の仕組みと相関関係を知ると、大きな怒りが大きな友好に激変する可能性を知り、人生に大きな平安感と希望が生まれてきます。


前の2件 3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13