友好

シスター 山本 久美子

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「友好」と聞くと、私には、個人的な関係よりも、国連で定められた諸国間の友好関係の諸原則や、都市や学校等、様々な団体同士の協力、交流を目的とする活動と、そのための基準等が思い浮かびます。

特別支援学校で勤めていた時、学校と児童同士の友好を図るため、隣接の公立小学校との交流学習会という機会がありました。

普通校に通う児童たちにとって、コミュニケーションを取ること自体が難しい重い障害を持つ児童との出会いと関わりは、驚きや緊張の体験であり、ショックを受ける場合も少なくなかったようでしたが、ぎこちないながらも、共に時間を共有し、風船バレー等のゲームを一緒に楽しむことで、徐々に自然に障害のある友達の存在を認め、優しく思いやる様子や言葉かけを見聞きすることができました。体験を通して、自分と異なる境遇経験をもつ友達の存在を知り、視野を広める学習の機会となっていると感じました。支援学校の児童たちも、元気一杯の子どもたちから大きな刺激を受ける機会になっていました。

学校教育の一環として行われていることで、参加する子どもたちも、普段の他教科の授業と同じように、ただ受け身的に参加しているところもあったとは思いますが、そういう機会を通して、確かに何人かの子どもたちは、机上での勉強からは学べない大切な人生の教訓を得、他者との真の関わりと将来の道を模索していくのだと思います。

現在、「文化交流」や「親善」の目的で友好都市の関係を結び、地域社会でも積極的な絆を築く動きが見られますが、単に地域の活性化につなげるだけではなく、人と人との心の交わり、主キリストが教えられる、他者を「いつくしむ」心を育むきっかけになればと私は願っています。

友好

村田 佳代子

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友好関係とか友好的とか、私達は国や公の団体が仲良く交流することに、よく友好という言葉を使います。しかし、もとはといえば普通に友達同士、仲良くつき合うことが友好であって、そもそも友達とはどのような存在の事なのかが問題です。

友達は1人から複数迄含むので友人と言い換えても、「友」とは親しく交わっている人同士の事です。しかし、良く考えて見ますと、友人とは色々な出会いやきっかけがあって友となるので、全てが友好とはいかない場合があります。

幼友達とは親世代が知り合っていたり、家が近所だったりして自分が意識する以前から用意されていた友です。学友、級友、寮友、社友などは子供から大人へと成長していく場で出会い、知己となる存在です。盟友、戦友となると出会いは偶然であっても、運命共同体のような体験をする事により、特別な忘れられない存在となります。現在も固い友情で結ばれているのが親友、現在は疎遠になっていても懐かしい想い出の中で生き続けているのが旧友です。尊敬や感謝をこめ畏友と云うこともあるでしょう。そんな色々な結びつきの種類を持つのが友達なのです。自分にとって善い存在も悪い存在も居るでしょうが、悪友と呼ぶ相手でさえ懐かしさを覚えるものです。

この様に友について考えるなら、友好の意味がはっきりしてきました。例え苦手な相手でも、片目をつむり、相手のよい所を探して、仲良く出来そうな所から、つきあいを始めるのです。何も親友になろうとしなくても、偶然の縁に感謝して友達づきあいを始める事、即ち常に友好的な態度で居る事です。友好の連鎖から平和が築かれるのだと気付きました。


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