
その子ネコは友人に拾われて、一命を取り留めた。友人の手のひらの上でスポイトでミルクを飲み、四~五日すると元気になった。子ネコは命を助けてくれた人を親だと思った。そんな子ネコも一年もすると、思いのほか大きなオリーブ色のネコになり、貫禄があった。誰にでもなつくわけではなく、友人にだけなついた。友人に何か嫌なことがあったらしいと察すると、本を読んでいる両腕に乗ってきて、「ボクはいつだって、命を助けてくれたあなたの味方だからね」という態度をとった。子ネコが拾われたばかりの頃は、友人のあとをどこにでもついていったが、大きくなるとかえって友人を慰めるようになり、実に素晴らしい友好関係を築いている。
このひん死の子ネコが助かったのは運がよいと言えばそれまでだが、「ニャー」と意思表示をしたことは、子ネコにとって幸いなことだった。そして助けてもらい、自分も何かできるようになったら敏感に友人の心情を察して慰めている。
ここでは単に人間と子ネコの話だけれども、人間の私もほんとうにどうにもならないとき、この子ネコのように神様に対してきちんと意思表示をしただろうか?
神様に助けていただき、元気になったら、友のために誠意を尽くして働いただろうか。
私も子ネコのように義理堅く働いていこうと決心をした。

真の友を見出すことは、私たちの生涯において差し迫った重要な課題です。何故なら、真の友を見出すことができないなら、ある意味、健全な形での友好関係を他人と築けないからです。「この人もいつか自分を裏切るのではないか」と疑心暗鬼しつつ他人と関わっても、本当の友情は、そこに育ちえないからです。
多くの人が、自分を見捨てない存在として人生の初めの段階で見出す相手は、両親、あるいは、両親のように関わってくれる人達です。しかし両親も、両親に代わる人達も、私達の人生のあらゆる段階で私達に同伴できる訳ではありません。大抵の場合、私達より先に天に召されます。
それでは、私達は、どこに真の友を、私達を見捨てることなく、生涯に亘って同伴してくれる友を見出せばよいのでしょうか。
聖書のイザヤ書の中に、次のように書かれています。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも私があなたを忘れることは決してない」。(49・15)この方、主なる神は、私達にとって、友以上の存在、また親以上の存在です。