歓迎する

越前 喜六 神父

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 「歓迎」という漢字は、人が心底喜んでお迎えする気持ちを表しています。ただ、単純に嬉しいとか、楽しくお迎えするということではないと思います。

 たとえば、私が歓迎するという時というのは、毎週の決まった曜日に開講しているキリスト教の講座に、初めての人がふと訪れた時です。

 この人が、愛と真実と平安を求めて、キリストの福音に出会いたいという動機で受講されるのであれば、それこそもろ手をあげて歓迎します。それは他のメンバーたちも同じです。主キリストは、愛と平和と喜びの神ですから、聖書の学びを通して主キリストに出会う人は、間違いなく主キリストから歓迎されていることを体験します。こうして信仰の道に入っていくわけですが、その道のりが、途中どんなに険阻に思えても、主キリストの愛と恩恵の喜びに慰められて、勇ましく進んでいきます。歓迎とはそれほど重要なことだと思います。

 さて、私自身が歓迎されていると体験したことを申し上げます。

 5年前の春3月、巡礼団の一行を連れてイスラエルの首都エルサレムを訪ねたことがあります。エルサレム巡礼で一番大事なことは、主イエス・キリストが十字架上で亡くなられたカルワリオの丘とその麓にあるお墓の上に建てられた大聖堂、聖墳墓教会に入ることです。頑丈で壮麗な建築物です。イエスの墓は、人が腰を曲げ、くぐってしか入れない洞窟です。そこに空の墓がありますが、今は世界からの巡礼団が多すぎて、祭壇になっています。私とその一行が、日本から来ましたと言ったら、真っ先にその祭壇をミサのために優先的に使うことが許されました。その時は、本当に歓迎されていると感じました。

歓迎する

シスター 山本 久美子

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 修道会に入会して学んだことの一つに、「ホスピタリティー」があります。修道院を訪れるお客様を、「イエス様のように」歓迎することです。特に、手作りの「おもてなし」がとても大切なこととして、私の心に入りました。お客様一人ひとりのために、喜んで自分の時間を提供し、手づくりのお菓子やお料理をお出しし、お互いの存在、心を分かち合う、共同体の「食卓」作りにつながっています。

 イエス様も人々のニーズに立ち止まり、自分の時間を積極的に分かち合い、食卓を囲み、共に語らうことを大切になさいました。聖書には、イエス様が「大食漢で大酒飲み」と言われたという箇所がありますが、(マタイ11・19)それも、イエス様がそれほど出会う人々を受け入れ、関わりを大切にされ、愛されたということを物語っていると思います。

 今も、教会で大切に行われているミサ聖祭は、そのイエス様を中心に信じる人々が囲む愛とよろこびの食卓です。私たちは、ミサの中で、目には見えないそのイエス様の愛を目に見える形、「食卓」を囲むことによって、今も私たちの中に生きておられるイエス様を思い起こすのです。

 数年前、「おもてなし」という言葉が、オリンピック招致のプレゼンテーションで話題になりました。「おもてなしの心」は、時間をかけ、心を込めた準備、他人への行き届いた配慮、姿勢、その言葉が表しているような「裏表のない」、見返りを期待しない心を表わしています。現代の日本社会の中で忘れられ、呼び起こされた、日本人の誇りとされる、目に見えない宝です。

 私は、キリスト者として、日本人として、この目に見えない宝を出会う人々と分かち合っていきたいと思います。


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