都会に住んでいると、住宅の多さと密集度に驚くことがよくある。そこで生まれる出会いもまた数え切れないほどだろう。
小学生の時に、母親が再婚して新しい父親がやって来た、という知人がいる。新しい父親は悪い人ではなかったが、家庭のルールや雰囲気も変わってしまい、母親は何だか遠い人になったように感じられた。そして彼にとって悲しかったのは、実の父親が丹精した庭を、新しい父親がすっかり変えてしまったことだった。
彼は新しい家庭と父親を「受け入れる」のがとても難しかったそうである。彼にとっては、子ども時代を急に卒業させられたようなものだったろう。母親の気持ちを思いやったり、父親の思い出の庭を心の中だけのものにしたり、大人でも難しいことをこなさなければならなかった。
人生の大きな変化は、望む時に起こるとは限らない。新しいお父さんが欲しいなあ、と願うようになる前に、お父さんは来てしまう。人生に訪れて来るものを、私たちは選べないのである。
もし何かを受け入れなければならない時は、ただ「受け入れる」のではなく「歓迎する」という気持ちで臨みたいと思う。一見、災難に思えるものや不本意なことを歓迎するなど不可能のようだが、まずはそう思うだけで、不思議と心が奮い立つ。
知人は成人後もずっと両親と仲が良かった。彼も両親も両方が努力をし、時と共に本当の愛情に変わっていったのではないだろうか。
ごく普通の人々である彼らのことを思い出す度、私は人に対する敬意を新たにし、また、人生に訪れるものを、勇気を持って受け入れることの偉大さを思う。
6月の夕暮れ時でした。
函館郊外大沼湖畔にある我が家のインターフォンが突然なりました。Mさんでした。
「昨日、こちらに来たのですが、一緒に来た犬のシンちゃんがいなくなってしまったの。見かけたら、知らせてくださいね。お願いします」
シンちゃんはMさんが動物レスキューから引き取った白い小型犬です。毎年、大沼にやってくるシンちゃんと私は、顔なじみで大の仲良しでした。翌朝、5時頃のことでした。私はぼんやりと窓の外を眺めていました。すると、村の道路を一匹の白い犬がすたすたと歩いています。よく見ると、飼い主の姿がありません。
〈あっ、シンちゃんだ〉私は大急ぎで外に出ると、過ぎ去った方に向かって声を限りに叫びました。「シンちゃん。シンちゃ~ん」近所中を捜し回ったのですが、見つかりません。Mさんに電話をして、シンちゃんを見つけたのだけど、見失ってしまったことを伝えました。
朝食後、私はシンちゃんを捜しに出かけました。ゆっくり車を走らせながら、窓から名前を呼びました。すると、別荘に住む人たちが何人も捜しに出ていることが分かりました。犬が迷子になったことを知った人々が外に出て捜しているのです。
私は一度家に戻りました。すると駐在のお巡りさんがやってきました。私は今朝シンちゃんを見つけたときの様子を聞かれました。Mさんは犬が行方不明になったことを警察に届けたようです。
昼前のことでした。「見つかったの!」Mさんからの電話。
「お巡りさんがね、見つけてくれたの。登山道路のはずれで。近くに貂がいたんですって。危ないところだったわ」
迷子のシンちゃんを別荘地帯の人々は総出で捜し回ってくれて、大歓迎の一日となりました。