歓迎する

小川 靖忠 神父

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 最近の報道等を見ますと、それこそ「歓迎」できる内容のできごとが少なくなったような気がします。連日、悲惨な事件事故が、新聞紙上を賑わせているようで、寂しく、悲しくなります。

 そういった出来事の一つで、わたしの記憶に残っている悲惨な事件に、「京都アニメーション放火事件」がありました。日頃から、アニメに親しんでいなかったわたしですが、この事件で新たなことに目覚めさせていただきました。

 「京アニ」として親しまれていたのは、国内だけでなく、地球規模であったということでした。それに、多くの方々が同社の作品に生きる力をいただき、救われていたという事実です。

 あの当時、「自分の町内に、これほどの会社が存在していたなんて、誇りです」という住民の方のことばも印象的でした。

 決して、この事件は歓迎される出来事ではありません。それだけに、一層悔やまれます。

 一方で、これまでも感じてきたことですが、「歓迎される」出来事というのは、知られにくい、広まりにくいということがあるのでしょうか。悲惨な事故から見えてきた、アニメーションによって、「救われた人々」の実態は、それまで報道されることはありませんでした。ご本人だけが知っていることです。これこそ、喜ばしく、大いに迎え入れたいことだと思います。

 わたしたちの中に、ごく当たり前のことに対して、心が揺り動かされるところはないというのでしょうか。そうではないはずです。当りまえのことを、「有難い、大歓迎します」という思いで見直してみることもあっていいのではないかと。

 「歓迎する」ことは、つまりは、日常的な営みの中で培われていく「心の感覚」ではないかと思うのです。

歓迎する

古川 利雅 神父

今日の心の糧イメージ

 「いらっしゃいませ。」開店と同時にデパートやショッピングセンターに入ると、店員さんが深々と頭を下げて挨拶して下さり、嬉しい思いをしたことはないでしょうか。また旅館の玄関に「歓迎、誰々ご一行様」自分の名前や、学校名、会社名などが書かれている札を見つけると嬉しいものですが、出迎える方がもし誰もおられなければ、寂しい思いがします。心と心の触れ合いが大切なのでしょうね。

 ある人が初めて教会を訪ねた時のこと、外国人の神父様が入り口で手を広げてお出迎え。その歓迎の姿に、突然訪れた自分が受け止められたことに感動したと語っておられました。そしてその方はこの出来事をきっかけに、教会に通われることに・・・。

 これは教会での出来事の一コマですが、私たちの生活の中で同様なことがあるでしょう。歓迎と言っても、様々な形がありますね。

 この神父様の様にジェスチャーを交えて、歓迎を直接伝えることもできますし、家にお客様が来られるとすれば、玄関前から、庭、家の中を掃き清め、花を飾り、絵を飾って、歓迎の心を表すということもできるでしょうね。

 では神様をお迎えする時はどうでしょう。私たちを愛して下さる神様は、私たちの心が、ご自分の方に向くのを、ご自分の方に来るのを待っておられます。私たちがクリスチャンであってもなくても私たちが心を込めて、「どうぞ私のところにいらして下さい」と願い、歓迎するなら、その歓迎、その心を喜んで下さることでしょう。

 新たに始まるこの一日、「神様、どうか私のところに来て下さい」・・・この様に願われてはいかがでしょう。新たな出会い、素敵な出会いが待っているかもしれません。今日の一日が神様の恵みに満ちた一日となります様に。


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