歓迎する

遠山 満 神父

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 お盆やお正月の時、我が家にお客さんの訪問があると、父は決まって、そのお客さんがいつ帰るのかを頻りに気にしておりました。また、親戚の家を訪問する時も、早く帰りたがっていました。ある意味、父は、もてなしをする事も、される事も苦手な人でした。

 その父の血を引く私が、聖アウグスチノ修道会と言う、客人のもてなしを大切にする会にいるのは、不思議な事です。

 ところで、聖書の中には、人をもてなす事の大切さが多々記されていますが、私にとって最も印象的なのは、マルタとマリア姉妹の話です。(ルカ10・38~42)

 もてなしの為、せわしく立ち働いていたマルタが、イエス様の足元に座って、その話に聞き入っていたマリアに対して憤慨し、「(マリアが)手伝ってくれるように仰って下さい」とイエス様に言い放ちます。それに対してイエス様は、マルタが多くの事に思い悩み、心を乱している事を指摘された後、「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」と仰っています。イエス様が仰った事を、私達はどのように受け取れば良いのでしょうか。

 一つには、誰かを心をこめてもてなそうとするなら、相手の話に耳を傾ける必要があると言う事です。やみくもにもてなすのではなく、食べ物であれば、相手の好みなどを尋ねながら、もてなす必要があります。

 もう一つは、人によって、どのようなもてなしが良いのか、もてなされる本人でさえ気づいていない事もあります。例えば、アレルギーに関して、稀な事かもしれませんが、本人ももてなす側も、それを知らない事があります。

 それゆえ、人をもてなす時、イエス様に尋ねたいと思います。

 「この方を、どのようにもてなせば良いでしょうか」と。

歓迎する

植村 高雄

今日の心の糧イメージ

 最近テーマとして与えられた、「歓迎する」と言う言葉は、私の人生を刺激的にちくりちくりと追い込み、悩まされましたが、その反面、私に不思議な感動と美しい想い出を湧き出させてくれました。

 私は17才の時に洗礼を受けました。その頃毎日、不思議な神様の存在が頭から離れず、嫌いな相手の場合でも今までとは違う付き合い方を考え始めました。洗礼を受ける前は、よく喧嘩をして、負けそうな時は、直ぐ逃げ出していたのですが、洗礼以来、待てよ、と冷静になりだしていたようです。

 私にとって昭和20年代の後半が青春時代ですが、勉強にうんざりして喧嘩ばかりしていた頃です。自己嫌悪と劣等感、希望の無い青春。

 そんな折に、不思議な神様だなあ、と感じた一つは、生意気で不遜な高校生の私を「大歓迎してくれているよ」という神父さんのお話でした。本当かなあと、いつも疑っていました。こんな変な高校生を無条件で受け入れるはずがないと信じていたからです。

 こんな状態で日本の大学に入り、神様を忘れたような、自由で楽しい大学生活を終え、社会に出ます。

 海外での厳しい勉強や仕事の体験に遭遇するたび、今思うに、いつもあの神父さんの助言、困ったら神様の名前を叫びなさい、というアドバイスを実行していたようです。「どんな時でも神様は君を歓迎しているよ」というあの神父さんの言葉が私を支えていたようです。

 変な私を歓迎してくださる神様に倣い、私も、私を頼りにして訪ねて下さる大勢の方々を大歓迎したいと思いますが、あのようには歓迎していない自分がいます。

 心から人を歓待しお迎えする難しさをしみじみ反省する日々です。


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