クリスマスに学ぶ

シスター 渡辺 和子

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クリスマスの心、それは、愛する心です。愛する時、人は、相手と心も体も1つになりたいと願います。その人と同じ世界に身を置いて、相手の喜びも悲しみも、分かち合いたいと思うものです。

人間が神に対しておかした不従順の罪をあがなうために、神は天の高みから、「赦す」と一言仰れば、それで事足りたのです。でも、神は、そうなさいませんでした。人間への神の愛は、ご自分の「御独り子を賜うほどに」(参:ヨハネ3・16)限りなく深く、その方法も絶妙だったのです。

無限の神に対しておかされた罪は、有限の人間の力ではあがないきれないものであり、さりとて、人間がおかした罪でしたから、人間によって償われなければなりませんでした。

神の愛の絶妙さは、真の神でありながら、真の人である御子をこの世に、それも幼子として送り、人間の不従順の罪を、御子の十字架上での死までの従順で、完全にあがなってくださったことで表されました。

イエス・キリストはかくて、インマヌエル、共にいる神としてこの世に生まれ、生き、死んでくださいました。人間を愛するあまり、苦楽をともにしたいと願われたのです。

災害、苦しみ、貧しさの中にある人たちに、物資、義援金を送ることもさることながら、幼子の降誕を祝うのに一番ふさわしい心は、かくて、「痛みを伴う愛の心」ではないでしょうか。自分の毎日の生活の中に否応なく入り込んでくる小さな痛み、苦しみをしっかりと、両手でいただくのです。そうすることで、いっときでもいい、苦しむ人、愛に飢え渇いている人の世界に身を置く「痛む愛」こそは、クリスマスを迎える最適の愛の心であり、十字架につくために生まれ給う幼子への、最高のプレゼントであるに違いありません。

クリスマスに学ぶ

阿南 孝也

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娘が男の子を出産しました。待望の初孫が誕生し、新米のおじいちゃんは喜びでいっぱいです。生まれたばかりの赤ちゃんを抱くのは、娘の誕生以来のことです。壊れそうなくらい小さく柔らかく、か弱い、そしてこの上なくかわいい存在です。

新しい命の誕生を目の当たりにして、あらためて、イエス様が赤ちゃんとしてこの世に来てくださった意味について考えてみました。

「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」と聖書は伝えています。(ルカ2・7)身重のマリアを見れば、たとえ満室であったとしても、どこか屋内に場所を用意できたのではないでしょうか。

私たちは、神様を迎え入れる心と時間の余地がない生活をしていないか、今一度振り返ってみたいと思います。そして、断られても生まれてくださった神のみ心を悟ることができますように、祈りたいと思います。

ヘロデ王がイエス様の命を狙っていると夢で告げられたヨセフは、幼子と母マリアを連れてエジプトへ避難します。今日、紛争等によって、過酷な条件の下、難民キャンプでの生活を余儀なくされた人が大勢おられます。イエス様は難民生活を経験され、生きる悩み、痛みをつぶさに知ってくださったのです。

教皇フランシスコが発表された新しい回勅の中に次の言葉を見つけました。「イエス様は大工として、神様が造った材料に自分の手で形を与えるという毎日を送っていました」。

ナザレのイエス様は、働いて糧を得て、家族を養いました。クリスマスに始まる30年の間、イエス様は様々な試練を受けて苦しまれました。またヨセフ、マリアの生きる姿から多くのことを学ばれたことでしょう。

こうした30年を経た後、公生活に入られたのです。


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