クリスマスの時期であれば、幼子イエスを待ち望む喜びで満たされるものだが、クリスマスではない時期には、いつもと違った視点で見ることになる。王様の1人の顔はオリーブの木に入っている茶色の筋のせいで、とめどない涙を流しているようだ。神への揺るぎない信頼をもって母子を守ろうとする養父ヨセフ、目の下に深いクマがある厳しい表情のマリア、幼子イエスは飼い葉桶に十字架のように両手を広げている。
日曜日に教会にいくと、聖書の福音朗読箇所は、主イエスはすっかり大人になっていて、窮乏のなかに産まれた幼な子が無事に成長しているのを知り、神への信頼をもって従ってきたからだと思わずにはいられない。
幼子イエスの誕生から3日後には、ヘロデ大王が救い主が産まれたことで不安に駆られ、ベツレヘムで二歳以下の男の子が虐殺される。ヨセフは夜、夢でエジプトに逃げるように天使から告げられ、すぐにマリアと幼な子イエスを連れて逃げていく。きっと彼らは王様たちからもらった贈り物を切り売りしながらエジプトへと逃げて生き延びたのだろう。
クリスマスに飾る馬小屋セットの中に、将来への不安から完全に自由になる覚悟を学んだのだ。
聖書のこの箇所を、心の中で何度も繰り返しているうちに、マリアを通してイエス様が人となって、この世にお生まれになった、あのクリスマスの夜の出来事が、私たちとどのような関わりがあるのか、わかってくるように思われます。
無力なみどりご。ただ泣くことでしか自分の意志を表すことの出来ないみどりごが、神の独り子であると信じる信仰を、私たちはいただきました。
イエス様が神の独り子としてこの世に降られたという神秘を解く鍵は、聖書によれば「愛である」の一語に要約されます。神は私たちと全く同じ人間になって、悲しみも苦しみも共にされることを望まれたのです。イエス様のご生涯を眺めるとき、私たちが耐え忍ぶどんな些細な苦しみをも、イエス様は身をもって体験されました。そして、私たちがその光のうちに歩むように導かれます。
クリスマスはこの愛のもっとも深いあらわれではないでしょうか。