「心の糧」は、以前ラジオで放送した内容を、朗読を聞きながら文章でお読み頂けるコーナーです。

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試される

シスター 山本 久美子

今日の心の糧イメージ

 「試される」という言葉には、どこか胸の奥をひやりとさせるものがあります。誰かに値踏みされているようで、信頼されていないような寂しさが残るからです。
 まして、全知全能の神が人を「試す」と言われるなら、戸惑いを感じざるを得ません。

 すべてを知り、いつくしみによって世界を創られた方が、どうして、一介の人間を揺さぶる必要があるのでしょうか。その意味が見えないままでは、心は曇ってしまいます。神が人を試されるのだとすれば、一体何のためなのでしょうか。

 旧約聖書・創世記22章には、アブラハムが神に「試され」、愛する一人息子イサクを神に捧げるよう命じられる場面があります。初めてこの物語を読んだ時から、私は心に抵抗を覚えてきました。信仰の文脈では「揺るぎない従順」として語られることが多いかもしれません。
 しかし、人としての道理に照らせば、あまりに理解しがたい行為です。この物語を「神への従順」と解釈する教えと、人間として当然抱く違和感。その隔たりに、私の心は今もざわめくのです。

 信仰とは、やみくもに従うことではないはずです。むしろ、人としての道理を大切にしながら、現実の生活の中の出来事を通して、神のご計画の深さに信頼し、それを受け止め、識別していく心のあり方ではないでしょうか。

 そう考えた時、ふと気づいたことがあります。今、この「試される」という言葉に心が揺れていること自体が、すでに神との対話の始まりなのではないか、ということです。私は、そこに神の導きを感じます。

 私は、信仰という言葉に縛られるのではなく、現実に足をつけ、揺れる心さえも神に開きながら、より深い理解と成熟へと歩んでいきたいと願っています。