老いてなお・・・

福田 勤 神父

今日の心の糧イメージ

私の人生は、「人生の四季」を思わせるような時の流れだったような気がします。

幼い時に両親を亡くしたせいか、中学生の頃に教会を訪れ、フランシスコ修道会の神父になる道を選びました。

神学校に入学した私は、その年の冬に突然喀血をし、札幌の病院に入院し、肺切除の手術をしました。その病院で世話してくださった看護師は、女子フランシスコ会の修道女で、日本人としては2人目のナイチンゲール賞を受賞した方でした。

それから7年後に、やっと神父に叙階された私は、その後6年間ヨーロッパ留学を命じられ、帰国後に東京の神学校に勤務しました。そして20数年後、今度は肝炎で入院し、そこで又あの看護師と再会したのです。

その看護師の短歌に、こんな句があります。

「その起伏ゆるやかに見せて 草原の

雪かぶりおり、生命ひそめて」

また、彼女の著作「老いてなお看護婦」の中に、こんな一節があります。

「看護が好きである。なぜであろうか。人の苦しみ悲しみの傍らに居ることによって、いつも自分との闘いが求められ、その結果が、成功、不成功であるかを問わず、充実感があり、人間との、深いかかわりの中で、お互いに成長できるからである」。

その彼女が臨終の時、ふと目を開き、枕もとに立っていた私に、「私の厳しい看護の姿勢は、これでよかったのでしょうか」と尋ねました。

「勿論ですよ。その厳しさがあったからこそ、私たちはこんなに元気になれたのですから」と答えた私に、彼女は大きくうなずき、静かに目を閉じました。

老いてなお、看護の心に徹しきった修道女看護師の生涯でした。

老いるにも意味が・・・

小林 陽子

今日の心の糧イメージ

老いるにも意味が・・あるにちがいありません。

あらためて、こう正面切って「老いることの意味とは?」と考えることはありませんでした。たぶん、逃げていたのでしょうね。

だいたい、70代の前半を切ろうとしているのに自分を老人だと思っていない!ということに気づきました。あわてて図書館に走りました。

あることあること、「老い」に関する本がずらりと並んでいます。

65歳以上の高齢者が全人口の25パーセントを占めるとのこと、いかに「老い」を生きるかは、さし迫った大きな課題です。

若者文化が巾をきかせている日本、とかく「老い」は福祉行政などにくくられてしまいがち。

でも、もともと「老」は、尊敬語なのだそうです。老成、老熟、老大家など。否定的な老醜、老獪などは後で造られた言葉なのです。

ですから、透徹した人生観、枯淡の心境、敬虔さを身に帯びた、真の「老人」になれるのは選ばれた人、のみなのです。

となると、違った意味で私など、「老人」というのは、まだまだおこがましい。

枯淡の境地とは、ただ枯れてゆくのではなく、物欲や名誉欲、野心などあらゆる欲望から解放された自由人、ということですし、敬虔さとは、超越者ー神の前に額ずくことの出来る人、ということでしょう。

また老熟とは、あらゆる状況に対して耐性ができてゆくこと。つまりどんなことがあっても、竹がしなうように柔軟に対処できる。

孔子の言う「いくら自分のしたいようにしても規範を越えることがない」ということですね。

やりたいことをやって、のびのびと、自由自在に天を仰ぎ地を眺め・・そんな老いの境地に憧れます。

それがかなえられる世界でありますように・・・。


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