それから7年後に、やっと神父に叙階された私は、その後6年間ヨーロッパ留学を命じられ、帰国後に東京の神学校に勤務しました。そして20数年後、今度は肝炎で入院し、そこで又あの看護師と再会したのです。
その看護師の短歌に、こんな句があります。
「その起伏ゆるやかに見せて 草原の
雪かぶりおり、生命ひそめて」
また、彼女の著作「老いてなお看護婦」の中に、こんな一節があります。
「看護が好きである。なぜであろうか。人の苦しみ悲しみの傍らに居ることによって、いつも自分との闘いが求められ、その結果が、成功、不成功であるかを問わず、充実感があり、人間との、深いかかわりの中で、お互いに成長できるからである」。
その彼女が臨終の時、ふと目を開き、枕もとに立っていた私に、「私の厳しい看護の姿勢は、これでよかったのでしょうか」と尋ねました。
「勿論ですよ。その厳しさがあったからこそ、私たちはこんなに元気になれたのですから」と答えた私に、彼女は大きくうなずき、静かに目を閉じました。
老いてなお、看護の心に徹しきった修道女看護師の生涯でした。
あることあること、「老い」に関する本がずらりと並んでいます。
65歳以上の高齢者が全人口の25パーセントを占めるとのこと、いかに「老い」を生きるかは、さし迫った大きな課題です。
若者文化が巾をきかせている日本、とかく「老い」は福祉行政などにくくられてしまいがち。
でも、もともと「老」は、尊敬語なのだそうです。老成、老熟、老大家など。否定的な老醜、老獪などは後で造られた言葉なのです。
ですから、透徹した人生観、枯淡の心境、敬虔さを身に帯びた、真の「老人」になれるのは選ばれた人、のみなのです。
となると、違った意味で私など、「老人」というのは、まだまだおこがましい。
枯淡の境地とは、ただ枯れてゆくのではなく、物欲や名誉欲、野心などあらゆる欲望から解放された自由人、ということですし、敬虔さとは、超越者ー神の前に額ずくことの出来る人、ということでしょう。
また老熟とは、あらゆる状況に対して耐性ができてゆくこと。つまりどんなことがあっても、竹がしなうように柔軟に対処できる。
孔子の言う「いくら自分のしたいようにしても規範を越えることがない」ということですね。
やりたいことをやって、のびのびと、自由自在に天を仰ぎ地を眺め・・そんな老いの境地に憧れます。
それがかなえられる世界でありますように・・・。