あるシスターから聞いた話です。介護老人ホームに入所されていた、あるおばあさんが、自分も人の役に立ちたいと「何か仕事をさせてほしい」とおっしゃったそうです。そこで、そのシスターは、こう答えたそうです。「あなたは笑顔が素晴らしいから、毎朝、入所されている方々や職員さんたちに笑顔で、大きな声であいさつをしてくださいませんか」と。本人は、「それだけですか。」と言っていたそうですが、「ま、やってみるか。」と笑顔でのあいさつを始めてくださり、それを最後までやり通したそうです。
幾つになっても人の役に立ちたい気持ちが実は誰にでもある。その気持ちに支えられて、誰かのために何かができる。もし、体の自由がほとんどなくなったとしても、誰かのためにお祈りすることはできる、と思いました。
歳を重ねるにつれ、病を幾つも抱えたり、動作の一つ一つがゆっくりになったり、思うように動くことが日に日に難しくなっていくことでしょう。それでも、今まで生きてきた経験と知恵を生かして、何かに挑戦し続けることができるのだと思います。こうして、誰かのためにも生き続けていくこと、幾つになっても自分の人生を他者のためにも開き続けていくことが老いることの意味なのかもしれません。
お母さんは「おじいちゃんになったんでしょう? ご祝儀の1万円、用意してくださいね」と容赦なしです。
一方おじいちゃんは、学校に行ったり宿題をしたりと、老体に鞭打って孫のために奮闘しますが、やはり2日目にしてギブアップ。「わしは疲れたよ。もう取替えっこはやめんかのう」
ちなみに、せりふの細部はおぼえていないので、いまの会話は内容を再現した私の文章です。
そんなこんなで、2人の「取替えばや物語」はあっけなく終わり、それぞれの年齢として生きるのがいいんだという結論に至ったのでした。
爆笑しながら、ふと考えました。年齢相応の役割があるなら、高齢者には高齢者の役割があるわけです。人生の先輩方としての役割をきちんとはたしてくれる高齢者には、年下の者として自然に敬意が湧き、敬老という言葉が生まれたのでしょう。高齢だから敬われるのではなく、高齢者としての役割を果たすから敬われるのだと私は思います。
核家族時代で世代間の理解が難しくなっているいまこそ、老いも若きも年齢相応の役割についてともに考える必要があるのではないでしょうか。