とはいっても、やっぱり歳は取りたくないもの!です。今まで何でもなく出来たことが、老いると出来なくなってゆくのですから。 実際、歳を重ねると、目も耳も不自由になり、体のあちこちが痛み、何かにつけて体力の衰えを感じます。物忘れもひどくなり、認知症?の不安も出てきます。家族や施設の介護が必要になる場合もあるでしょう。このように肉体的にも精神的にも喪失感を味わいながら、否応なく弱い立場になってゆく過程で、人は謙虚にならざるを得ません。
私も歳を忘れて無理をしたのが祟って腰痛になり、自由に歩けなくなって家族や医療関係者の助けを受けた時、その親切が身に滲みました。
幸いにも腰痛が治った今、自由に歩けること、そして普通の日常生活が自力で出来ることがどんなに有り難く幸せなことかと深く悟り、「高齢者に無理は禁物」と肝に銘じました。
こうしてみると、「老い」は、ある意味で「恵み」かもしれません。「良い死」を迎えるための「禊ぎ」の時。それは魂を清め、感謝の心で「死」を迎えるために必要な「レッスン」の時かと思われます。
このように前向きに受け止めると、「老い」の日々にも新しい発見が有り、天国への希望が湧いてきます。
ある日の夕食後、DVDで映画を楽しんでいた時でした。私は目に違和感を覚え、洗面所に顔を洗いに行きました。鏡に私の目を映してみると、どうしたことでしょうか、白目が真っ赤なのです。
〈どうしたのかしら。なにかで、目が傷ついたのかしら。〉
夫に見せると、「今夜は安静にした方がいいよ。明日、朝一番に病院へ行こう」
翌日、夫の運転で病院へ行きました。お医者さんは言いました。
「白目の血管が切れて、出血したようです。2週間もすれば充血は自然に消えますよ」
私はなぜ起こったのか尋ねました。
「原因は分かっていません。しいて言えば老化でしょう。普通にしていて大丈夫ですよ。」
私が通っている水中運動教室の日、仲間から聞かれました。
「その目どうしたの」
私が理由を説明すると、皆口々に言うのです。
「今度、急に具合が悪くなったら、いつでも飛んでいくわ。病院にも連れて行ってあげる。まかしておいて」
若い時代は、他人を介護することだけを考えていました。歳をとって病気になったとき、私は初めて優しくしてくれる夫や仲間たちがいることに気が付きました。歳をとるのも悪いものじゃないなあと思いました。