ところが人間は、そのように自然の一部でありながら、本能を越えて、常に何かを与え合う不思議な生き物でもある。
この「与え合う」という習性は、人が生きる上で、また人の社会が機能する上で、不可欠なものらしい。人は何も持たず、無力な状態で生まれて来る。世話をされ、教えられ、愛情を注がれて成長する赤ちゃんは幸福だ。そして、子どもも多くを与えられるほど、生きがいや喜びを豊かに周囲の人々にもたらしてくれる。成人になれば、自分の技能や時間を使って、社会に貢献するが、自分の仕事が認められ、感謝されることもまた喜びだ。誰かを助け、役に立てることほど大きな幸福はない。
人が何かに生きがいを感じ、幸福に思うなら、そこに人の生きる意味が隠されているのではないだろうか。人は愛され、助けられて幸福になり、また助けることで幸福になるようだ。長い人生を経てきた人は、多くを与え続け、多くを与えられて来て、人の世の幸福をよく知った人なのではないかと思われる。
「静かに心を澄ませなさい。身体が老いたために出来なくなった事柄を悲しむ必要はない。それらは、あなたには不要になっただけなのだから。心を澄ませて、本当の幸福を思い出しなさい。あなたが望む限り、幸福は続く」そんな声がよく聞こえるように、冬は静かに澄み渡るのかもしれない。
また、リウマチを患うおばあさんは自分の誕生会の日に「買い物に行きたい」と望み、私は車椅子を押して老人ホームの外に出て、他愛のない会話をしながら八百屋やスーパー、本屋に入っておばあさんの行きたい場所を回りました。その日の仕事を終えて帰る前、もう一度おばあさんの部屋に顔を出すと、ベッドから身を起こしたおばあさんは満面の笑みを浮かべ「今日は楽しかったわよ」と言いました。
これは10数年前の思い出であり、2人のおばあさんはもうこの世にはいません。しかし、瞳を閉じれば2人の笑顔は心に浮かび、あの日の一言が今も聴こえるようです。
先日、古本屋でトマス・カーライルの『今日』という詩に出逢いました。「この日、永遠より来たり/夜と共に永遠に去る/人いまだかつてこの日を見ず/去って再びこれを見る者なし/ここに白日また来たりけり/浪費せざらんことを努めよ」という言葉に、2人のおばあさんの心が重なります。
「あたりまえの1日」がいかに大切であるかは老いてこそ実感するもので、若い時にはわかりづらいかもしれませんが、2人のおばあさんの存在は、今も遠くから語りかけています。〈人はかけがえのない想い出をつくるために、日々を生きている〉のだと。