老いるにも意味が・・・

岡野 絵里子

今日の心の糧イメージ

季節が春から夏へひらかれ、秋へと熟し、やがて冬となって、静かに澄み渡っていくように、人も生まれ、成長し、老いていく。

>老いとは人生の季節の一つであり、老いるとは生きることなのだと、誰かが教えてくれているかのようだ。「老いる意味は何か」という問いは、「生きる意味は何か」という永遠の問いの一節なのだろう。

ところが人間は、そのように自然の一部でありながら、本能を越えて、常に何かを与え合う不思議な生き物でもある。

この「与え合う」という習性は、人が生きる上で、また人の社会が機能する上で、不可欠なものらしい。人は何も持たず、無力な状態で生まれて来る。世話をされ、教えられ、愛情を注がれて成長する赤ちゃんは幸福だ。そして、子どもも多くを与えられるほど、生きがいや喜びを豊かに周囲の人々にもたらしてくれる。成人になれば、自分の技能や時間を使って、社会に貢献するが、自分の仕事が認められ、感謝されることもまた喜びだ。誰かを助け、役に立てることほど大きな幸福はない。

人が何かに生きがいを感じ、幸福に思うなら、そこに人の生きる意味が隠されているのではないだろうか。人は愛され、助けられて幸福になり、また助けることで幸福になるようだ。長い人生を経てきた人は、多くを与え続け、多くを与えられて来て、人の世の幸福をよく知った人なのではないかと思われる。

「静かに心を澄ませなさい。身体が老いたために出来なくなった事柄を悲しむ必要はない。それらは、あなたには不要になっただけなのだから。心を澄ませて、本当の幸福を思い出しなさい。あなたが望む限り、幸福は続く」そんな声がよく聞こえるように、冬は静かに澄み渡るのかもしれない。

老いるにも意味が・・・

服部 剛

今日の心の糧イメージ

以前働いていた老人ホームで、今も心に残っている場面があります。

仕事が早く終わった私は、半身不随のおばあさんが乗る車椅子を押して芝生の庭に出ると、西の空にとても美しい夕陽がありました。思わず私はひと時立ち止まり、頬を夕陽に照らされたおばあさんは目を細め、「きれいねぇ・・・」と呟きました。翌日おばあさんは私の顔を見ると嬉しそうに「昨日はありがとう」と言い、その後も時折私と話すたびに「きれいな夕陽だったわねぇ」と微笑みました。

また、リウマチを患うおばあさんは自分の誕生会の日に「買い物に行きたい」と望み、私は車椅子を押して老人ホームの外に出て、他愛のない会話をしながら八百屋やスーパー、本屋に入っておばあさんの行きたい場所を回りました。その日の仕事を終えて帰る前、もう一度おばあさんの部屋に顔を出すと、ベッドから身を起こしたおばあさんは満面の笑みを浮かべ「今日は楽しかったわよ」と言いました。

これは10数年前の思い出であり、2人のおばあさんはもうこの世にはいません。しかし、瞳を閉じれば2人の笑顔は心に浮かび、あの日の一言が今も聴こえるようです。

先日、古本屋でトマス・カーライルの『今日』という詩に出逢いました。「この日、永遠より来たり/夜と共に永遠に去る/人いまだかつてこの日を見ず/去って再びこれを見る者なし/ここに白日また来たりけり/浪費せざらんことを努めよ」という言葉に、2人のおばあさんの心が重なります。

「あたりまえの1日」がいかに大切であるかは老いてこそ実感するもので、若い時にはわかりづらいかもしれませんが、2人のおばあさんの存在は、今も遠くから語りかけています。〈人はかけがえのない想い出をつくるために、日々を生きている〉のだと。


前の2件 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11