年を重ねた方々に共通して言えることは、多くの経験を積み、様々な感情を味わってこられたため、他の方の人生を尊重できるようになることではないでしょうか。理想どおりに生きられた時期と、そうできなかった時期があり、そのどちらからも多くを学んでこられたのだと思います。また、年齢を重ねて体力的に出来ないことが増えると謙虚さが増し、若い時よりも、他者を受け入れる優しい穏やかな気持ちが培われるように感じます。そのような姿はとても美しいものです。
老いることは「人」として完成に近づくことを意味します。人は誰もが成長し、やがて、命の終わりを迎えます。私たちは、神が与えてくださった可能性に精一杯応えた後は、ゆっくりとすべてを神にお返ししていくのです。老いという時期に入るのは極めて自然なことです。
かつて、美人だと評判だったある女優さんが、お年を召すと不自然に化粧を濃くし、シワが出来ないようあまり笑わないようにしていました。それは、パサパサとした潤いも味わいもないお姿でした。
反対に、歩んでこられた道に満足し、お年にあった成熟した態度を見せてくださる年配の方にお会いするとホッとします。私もいつかそうなりたいなぁと目標にすることができるからです。
あの頃私は、「父に若い私の心がわかるはずがない」と、一方的に思い込んでいたのでした。しかし父は、私の言い分は充分に理解できたのですが、「今は何を言っても聞こうとしない」という諦めの思いがあったのでしょう。
年を重ねた今、やっとあの時の父の思いがわかるのです。若い人たちが主張することを黙って聴きながら、逸る心に沈黙を命じることが出来るのも、その思い出が記憶に残っているからだと思います。
老いるのにも意味があることを、痛切に感じるひとときです。
経験から推して言えることと、今言ってはならないことが分かる、それが老いた者の知恵かもしれません。
長い人生の間に味わった喜び、悲しみ、その経験が今、若い人たちに語りかける「勇気」となり、また、無言の中に秘められた力が若者に行動を起こさせることにもなるでしょう。
謙虚に聞く耳を持つ人は、先人の言葉に耳を傾けるでしょうし、自信を持って事に挑もうとしている人は聞いてくれないかもしれません。でも、一応話すべきことは話してみる、それが大切ではないかと思っています。
「老いる」というとき、それは天国への旅立ちが近いことを意味します。それに備えるには、幼いイエスの聖テレーズが教えているように、日々の小さい事柄にまで愛をこめて行うことではないでしょうか。