2025年11月のコリーンのコーナー

(徳島県)(学)暁の星学園
鳴門聖母幼稚園
 
教会壁面の聖母子像
みんなを優しく見守るマリア像

ご馳走か飢えか? ①

 近所の方々のご親切にあずかって、九月のおわり、私のキッチンにはシャイン・マスカットが幾房も美しく輝いています。冷蔵庫の扉をあけるたびに、こう呟いてしまうのです。「ご馳走か餓えか」"feast or famine"と。人生における豊かさと乏しさのサイクルを言いあてた英語でよく使う、韻を踏んだ表現です。

 「ご馳走か餓えか」という表現は聖書にその起源があるわけではありませんが、聖書には祝宴と飢饉の話がたくさん載っています。物語にそのまま出てくるものもいくつかあります。創世記ではヤコブの息子であるヨセフの物語で語られています。ヨセフはエジプトでファラオに仕えますが、その間7年の豊作ののちに、7年の飢饉がつづきました。

 ほかにも食物に限定されたものではないのですが、神の恵みが豊かに注がれる話が載っています。大いなる恵みのときと干ばつのときの物語です。
 例えば、預言者エレミヤは、神がバビロンへの流浪に送られたイスラエルの民に向けてこのように書いている。
 「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである 」(29: 10-11)。
 民がイスラエルの故郷を離れバビロンで捕囚にあって、神の現存は感じられなかったようですが、故郷へ戻るときには繁栄のときを迎えようとするのです。

 筆者と当時の読者は、聖書に描かれる「ご馳走か餓えか」については神の計画の一部であると理解していました。ときにこの「ご馳走か餓えか」というサイクルは、重大な出来事がおこるうえで必要な設定となります。
 これはヨセフの物語にみるとおりです。飢饉があったために、ヨセフの兄弟らは穀物を求めてエジプトまで旅することになります。かれらはかの地に留まり、子孫を増やしてゆきます。ついにはモーセがイスラエルの民を導いて紅海を渡り、神との契約を結ぶに至ります。場合によって、これは神の「懲罰と褒美」というサイクルのしるしとして受けとられることもあります。バビロンでの捕囚がそれにあたります。

 今日私たちには、出来事を神による「懲罰と褒美」として捉える受けとめ方は一般的ではないかも知れません。それでも私たちはあいかわらず人生におけるこうした浮き沈みに意味を与えようとするのです。