
登別カトリック聖心幼稚園
園舎全景
子どもは真似っこの天才です。よくもわるくも、周りの規範に倣うのです。親だったり、兄姉だったりと。かれらが伝えているメッセージを充分に理解しないまま真似たり話したりするのです。
覚えているのは、娘が言葉を習い始めたころのことです。食べ物を口にしながらも、「オイシイ、オイシイ」と熱心に繰り返すのです。顔の表情からは、それが好きでないことは明らかなのですが。また、息子が姉のジェスチャーやポーズを習い真似ているのを目にしてきました。愛が溢れているのですが、その意味は分かっていないのです。こうした真似っこはたしかに可愛いらしいのですが、親を慌てさせることもありました。それが親の言動を露呈することになるときがあるからです。
言語習得にあたっても、子どもは真似っこをします。その言葉だとわかるような音を発するまでには時間がかかります。子どもは耳にするものを繰りかえそうとするのです。日本で育った子供たちは、幼少期から私の英語を吹き込まれてきました。驚くことではありませんが、私と同様にまずは少し変ったアクセントを身につけてゆくのです。
それにもかかわらず、興味深いことに、英語圏で育った子供たちと同じ間違いを犯すのです。例えば、似たような間違え方をする動詞形を創りあげることがありました。周りの子どもたちからそんな動詞の活用形を耳にする機会もないはずなのに。子供たちは、私がwentとかateなどと発するのを何百回も聞いてきているはずです。それでも自分の話をするときには、それを自動的に規則変化させてgoedやeatedといった言葉を使用しているのです。無意識のうちに動詞を過去形にするのに、動詞の最後にedをつけ足すという文法的パターンを知らずのうちに発見していたのです。たしかに道理がとおっています。それでもすこしばかりミステリアスです。実際に耳で聞いてインプットされた例外的な過去形よりも、教え込まれていないパターンの方を知らず知らずのうちに優先させているのですから。
簡単に言えば、人は老いも若きもみな模倣するだけでなく、生まれながらにしてパターンを探しだす者なのです。自然にも、歴史にも、人間の行動にも私たちはパターンを見いだします。私たちは模倣に留まることなく、パターンを創りあげる生き物なのです。幸運なときには、あれやこれやで、パターンはものごとを深く理解するための手立てとなってくれるのです。