2025年05月のコリーンのコーナー

(倉敷市)
(学)淳心学園 認定こども園 海星幼稚園
玉島カトリック教会の御聖堂おみどうとルルド
いつも子どもたちがお祈りに行きます

ほかの人たちだけが知るこの人②

 前回のこのコラムで、中学生のころに書いた「わたしは誰? 知ることができたらいいのに」、という詩の文脈について、変わることのないアイデンティティの探求として書きました。

 むかしはこれについて深く考えませんでした。それでも、今まで神から与えられた本性である私の一部を探してきたのかもしれません。それこそ「もっと本物の自分」であり、環境や人々との関わりを通して養われた私の諸側面よりももっと特別なものであると信じて。
 私も永遠や独立といった理念を、無意識のうちにあまりに高いところに位置づけてきたかも知れません。これらは人々が価値をおき、またよく神を描くときに使う言葉でもあります。

 こうした理念のほかにも、聖書やキリスト教の伝統には神についてのイメージや言葉を示すものがあります。

 すぐに思い浮かぶのは、よく知られた「ヨハネの第一の手紙」の言葉です。
 「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(4:8)。
 「コリントの信徒への第一の手紙」は、「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない」(13:4)と述べています。

 でも私たちが愛について知るのは、こうした言葉や本の頁からではなく、人々との関わりによるものです。愛は関わりにおいてあるからです。私たちが愛するとき、神はそこにおられます。それゆえ、私たちは生まれつき、また日常の生活においても、神と深く関わりをもっています。

 本物の自分というものは、生涯を通して育むかかわりにおいてこそ、もっともよく見えてくるのだと信じるようになりました。

 中学生の頃、捉えどころのないこの「ほかの人だけが理解できる人」は、苛立ちの源でした。今では、それを可能性の泉として受けとめ育てていきたいと思っています。