2025年08月のコリーンのコーナー

(学)北海道カトリック学園 認定こども園
登別カトリック聖心幼稚園
子供たちを見守るマリア像と幼稚園を守るイエスの聖心

パターン② (原題 Pattern Problem)

 おそらく私たちが生まれて目と耳を開いたその瞬間から、死に臨んでそれを閉じるまで、パターンを逃すまいと目を凝らしているかのようです。パターンを探し見つけるという生まれながらの望みはまさに我々の生き残りとかかわっているのです。例えば、科学者はパターンを観察することで、周りの世界についての理解を深めてきました。それによって私たちの健康を増進し、生活の質を高めるという発展へと導いてきたのです。

 個人のレベルにおいてもまた、特別な訓練を受けることなく、パターンを見いだすことで幸福や利益を得ることができます。子どもたちにしても、人々を笑わすには何を言って何をすればいいか素早く感知します。家庭内でも、子どもたちは自分の一つひとつの要求に対して、どちらの親が「いいよ」と言ってくれるのか素早く察知します。また、私たちも年をとるにつれてパターン探しにもっと意識的になるようですが、それでもパターン人間になることをやめません。それはそれで素晴らしいことです。他方で、それによって例外を認められなくなってしまうことになるとしたら残念です。

 今あらためて子どもたちの言語発達において、前回お話しした例外的なwentやateを見過ごしてしまうケースについて考えています。こうした例外に気づかないのは、パターンが一時的に子どもたちの見方をブロックしてしまうからです。科学者たちはそれなりの訓練を受けているので、パターンに従わない情報を言いあてて、そこに注視することができます。私たちはというと、日々の生活で多くのedを添えるだけのなじみ深い動詞の過去形にさらされている中で、それにそぐわないものを聞きとる耳すらもちあわせていないのかもしれません。

 ここで私が例として挙げたのは文法と科学ですが、もっと真剣に考えているのは、文化や宗教、そのほかの社会制度のことです。こうした制度は、ときに混沌とした世界に意味と安定をもたらすことがあります。それらは、あたかも眼鏡をかければより鮮やかに見えるように、それによって私たちが躓かないように助けてくれるのです。ありがたいかぎりです。
 でも、逆に遠くを見通す遠視用の眼鏡が手元を曇らせてしまうように、制度というものがあるせいで、かえって私たちの世界のパターンにほとんど適合しない人々について見過ごしたり、判断を誤らせたりしてしまうこともあるのです。
 ときにこうした眼鏡を外すことで、かえって神が創られたもののうちに様々な美しさのあることを改めて味わうことができるのです。