
聖マリア幼稚園
広い園庭で自転車に乗ったり
ボール遊びをのびのびと
8月、米国に親類を訪ねました。いつものことながら、長々としたおしゃべり、少し長めの散歩、そしてたくさんのアイスクリームを楽しみました。
今年新たな出来事といえば、家具や日用品を扱うスウェーデンの店イケアに出向いたことでした。ある日の午後、夫と娘とで出かけてきました。鮮やかな青と黄色の巨大な建物にはショールームと倉庫がそれぞれ二階と一階とに広がり、買い物客が何時間いても飽きることがありません。レストランまであるのはそのためでしょう。私たち三人はそこで、買い物を済ませて下の倉庫に購入品を受けとりに降りてゆく前に、コーヒーとスウィーツをいただきました。
座ったテーブルの脇の壁に、大きな文字で描かれていたのは、こんな言葉でした。
「思い出を刈りとる」
「思い出を刈りとる」、この言葉は私の注意を惹きました。あまり英語で聴くことのない合わせ言葉だったからです。スウェーデンではよくある表現なのかもしれません。よくわかりません。それにもかかわらず、とても新鮮に映りました。そして、なによりもその表現が醸し出すフィーリングが気に入ったのです。
よい思い出づくりをし、あとになって思いおこす。これは私たちだれでも意図的に、または自然におこなっていることです。
何かを体験したとします。そのとき写真やヴィデオに収めておいたりします。また日記に残したり、友達にテキスト・メッセージを送ったりします。それもその体験を一緒に味わった友人に送ったり、ほかの友人に送ったりもします。そして何かのきっかけで、その出来事のすぐあとに、またはずっと後になってから、その写真を見返したり、私たちの物語を語ったりします。思い出とは、心に秘めた、またときに人々と分かちあうためにとりだす宝物です。
これはだれにでも当てはまることでしょう。でも「刈り入れ」という言葉は、それ以上のものを意味します。私たちが「植える」ものとは、異なるものを刈りとるからです。
種は、種そのままにとどまらず、自然に成長してゆきます。手間ひまかけて、はじめて実をむすぶのです。目の前のアップルケーキを口にしたとき、あることが見えてきました。
思い出とは、まるで種のように、大切な所有物というよりは、生き物であるということが。それも手間とひまをかけて、育ってゆくのです。思い出には、私たちに繰り返しくりかえし栄養を与えて育ててゆく力があるのです。