2025年10月のコリーンのコーナー

(神奈川県)(学)聖トマ学園 
聖マリア幼稚園
 
近くの逗子海岸へお散歩に
波と鬼ごっこ、自然を友達に

思い出を刈りとる ②

 すこし遠出の買い物から一週間ほどして、「思い出を刈り入れる」ことについてもう少し考えてみました。
 この夏、母と過ごす時間が多くて、時を共にしては、思い出ばなしに花が咲きました。思い出を引き出すたびに、それが育っていっていることに気づいたのです。むかし共に過ごしたときの出来事に、なにかつけ足しているというわけでもありません。それでも、思い出は自然に育ってゆくのです。
 そんなことを思いめぐらせていると、私のパーソナルな省察はふとした時に、ある文化や宗教的伝統によって培われた思い出へと移ってゆきました。おそらく私がもともとレストランのテーブルで思いめぐらしはじめたからかも知れませんが、いつしか「最後の晩餐」について考えていたのです。

 福音書で、イエスが死の間際に弟子たちと共にすごした最後の食事について読むことができます。
 その夕食は「過越の祭」と呼ばれるお祝いで、神が「記念すべき日」(出エジプト記12:14)として定めるよう命じた、「過去を思い出すための日」でもありました。その日ユダヤの人々は、どのようにして神が自分たちをエジプトでの奴隷の状態から導き出してくれたかについて、子どもたちに語り伝えるのです。
 聖書が語るところによると、この最後の晩餐の折に、イエスは「パンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」」と言われました(ルカ22:19)。

 一緒に思い出す、これこそキリスト教徒が召されている営みなのです。私たちはイエスの数々の物語をともに語ります。そして私たちは、イエスが友人らと共にすごした最後の晩餐を一緒に思い出すのです。

 こうした営みを実践するとき、私たちは単に伝統が育んできた大切な思い出を分かちあっているだけではありません。そうした思い出を「刈りとっている」のです。個人として、また共同体としても。また、手間とひまをかけて。この物語を思いおこすたびに、私たちもその物語に実際にあずかることになります。そうしてみると、これまでこうした種が新たに実をむすび、新しい世代に栄養をあたえて育ててきたことになるのです。

 現代の有名な讃歌もこう歌っています。

「私たちは思い出す、私たちは祝う、私たちは信じる」と。
 (マーティ・ホーガン作「私たちは思い出す」"We Remember" 1987年)