2025年11月のコリーンのコーナー

(徳島県)(学)暁の星学園
鳴門聖母幼稚園
 
園庭の楽しい遊具

ご馳走か飢えか? ②

 ご馳走に恵まれたとき、または飢餓に直面したときに、それが「神の計画」だとその理由を持ちだす仕方は、たしかに今日でも人々を惹きつけるものがあります。あらゆる状況にたいして説明を施しうるからです。その状況と同じように謎めいた説明であることにかわりはないのですが......。
 人によって、そこにはなにか壮大な計画があるのだと考えることで、心が安らぐこともあるのかも知れません。

 それでも私には、神が私の苦しみを、またあなたの困難を前もって計画したのだと信じることは出来ません。善いことも、悪いことも、時を問わずいつも起こるものです。そうでしょう。それらの理由を理解できるときもあります(またそれによって感謝したり、または不正を取り除いたりすることもできます)。ところが、どうしてこうした事が現実におこるのかを説明できないことがよくあります。それでも、どれだけ思いあぐねてもこの神秘が解けない、ということがあったとしても、それは私たちの力が足りないからではなく、むしろ私たちが困難を乗り越え、恵みをいただくための力の源となるからなのです。

 譬えが不適切なほどに軽いものに見えるかも知れませんが、私の冷蔵庫にあるぶどうについてふたたび考えています。といっても、ぶどうそのものについて言っているわけではありません。
 それは喜びの時と、痛みの時とを象徴するものなのです。件の豊かなシャイン・マスカットの房はとても豪華に映えていました。普段私の冷蔵庫にはないからです。あったとしてもいくつかのぶどうの粒が容易に数えられるほどで、それゆえ慎重に分けあうのです。豊かさを楽しめるのは、私たちが欠乏を経験してきたからです。また、喪失を悼むのも、私たちが愛を体験してきたからなのです。

 「ご馳走か餓えか」という英語の元の表現 "feast or famine" は、ため息まじりに発せられることがよくあるのです。人生とはそんなもんじゃない、と受け容れがたい様子で......。極端に走らない人生、中庸こそが望ましい、話し手はそう考えているかも知れません。多くの点でそのとおりでしょう。でも私はいま、好きな映画『永遠の愛に生きて』Shadowlands (1993年)からの台詞を思いだしています。

 「今かみしめる悲しみは、かつての幸せの一部なのです。そういうこと!」

 愛することがなかったら、私たちは悲しみ悼むこともないのです。人生のいかなる瞬間においても「ご馳走か餓えか」となりうるかも知れませんが、実は人生そのものが「ご馳走であり、また飢餓でもある」のです。

  私たちが困難に遭って苦しむのは神の計画ではありません。そうではなく、私たちが愛するために創られたからです。これが人生というもの! 

次回のお話は12月7日(日)に掲載予定です。