2025年02月のコリーンのコーナー

(沖縄・宮古島)
(学)カトリック学園 みつば幼稚園
園児を出迎えるマリア様と園庭の聖母子像

忙しい日常で神とまみえる ②

 ジープニーの内部スペースには、おおかた6人から9人掛けの長いベンチが二つ向かいあって延びています。乗客はふつう同じベンチに腰と腰を横に並べて座ります。反対側のベンチに座る人たちとは膝と膝とを突きあわせるかたちになります。ラッシュ・アワー時には、ぴったりと人との隙間もなくなるほどです。

 それでも、ジープニーに乗りこむと、いつだって私のためにスペースを空けてくれるのです。人々はジープの後方にむかって詰めて、乗り込んだずっと先のドライバーの真後ろあたりにスペースをつくってくれます。屋根は低く、かがんだ姿勢で移動するので、容易ではありません。それでも何インチかの隙間がいつも待ち受けていてくれるのです。ときに男性が私に席をゆずってくれたかと思うと、いきなりジープの外の踏み台に足をかけてぶら下がるというシーンもみられます。見ず知らずの子どもがいつしか私の膝の上に乗っていた、ということも何度かありました。そのおかげで、私が隙間に収まって座れるようにという計らいなのです。

 運賃は降りるときに支払いますが、コインや紙幣が目の前で手から手へと次々に渡っては、あっという間にドライバーにまでたどりつきます。お釣りも同じようにしてかえってきます。降りたいときに「パラ、ホー」、「ここで止めて」と言って合図を送ります。それも運転手が聞こえないときには、ほかの乗客が音を鳴らしてそれを伝えてくれるので、すぐにジープは止まってくれます。

 騒音のためにジープの中ではほとんど会話が無いようですが、それでもコミュニケーションの問題はおこりません。乗客らは即席でチームをつくり、おのおのが自らの持ち回りを演じ、目的地に到着するや、その役割を順次交替していくのです。

 3年間ジープニーに乗って移動することで、私の霊性なるもの、この世にたいする感じ方、そこにどうやって適応してゆくかという方向性が根本的に変えられた、などと大げさなことを言おうとしているわけではありません。それでも、私は忘れることができないのです。

 毎朝、毎晩、繰り返しくりかえし、どのようにして見知らぬ人々とのつながりを感じることができたかということを。
 混沌とした世界のただ中にあっても、互いに助けあい、頼り合うありさまを忘れることはないのです。
 米国のハイウェイで一人車を走らせたり、混雑していても整然とした東京の電車に乗ったりといったこととは、似ても似つかぬ経験だったのです。

 この体験をふりかえるとき、アブラハムがマムレで三人の旅人の訪問をうけて、もてなした物語、かれらが実は天使だったという箇所(創世記18章)を思い出します。
 また、イエスが天の国の到来について述べたことばも思い出されます。

 「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイによる福音書 25:40)と。

 ジープニーの中で神と横並びに腰と腰を触れてベンチに座っていたわけではないのでしょうが、私が「日々の忙しさのさなかに生きる見知らぬ人々」と出会った出来事は、大切な意味のある仕方で、これらの物語と変わらないことだったのだろうと信じています。

次回のお話は3月2日に掲載予定です。