この(Colleen's Corner)は少し視点を変えたエッセイです。
(カトリック教育施設の写真も毎回掲載します)
玄関の聖母マリア像 と 修道院の御聖堂(おみどう)
子どもたちがまだ小さかったとき、姉が大きな木製のカレンダーを故郷から送ってきました。それぞれの仕切り箱に小さなサプライズ・ギフトが入るようになっているものです。私も、たちまち子どもの気分に戻り、毎朝、家にあって故郷の姉の愛をじかに感じられたのです。
その年以来、小さな仕切り箱を埋めるのが私の役目となりました。思った以上に楽しいものでした。クリスマスを迎えてもいないうちにちっちゃなギフトをあげたとしても、それもおかしなこととは思いません。何年も昔に、毎朝包装されたチョコレートがもらえたときとは、また違うように感じました。ギフトの多くはお店で買ったものですが、それでも毎日慎重に選んだので、私の心の思いを伝えるにはうまくいったかなと思います。次の年から、これは我が家の習わしとして定着することとなりました。
ところが、時を経て、小箱に詰めるのがなんだか億劫になってきたのです。面倒だと感じたことなどない、といったらウソになります。それでも、何かと工夫したり、変化をつけたりして、功を奏することもありました。
例えば、仕切り箱に紙切れを入れて、そこに書かれた指示の通りに進むと隠されたお楽しみが見つかる、といった具合に。または、「どこか一緒に遊びに出かけようね」という約束を書きつけたりとかです。ときに夫がなにか箱に詰めて、少しは違う味を出してくれることもありました。私自身もこの扉のうしろには一体何があるんだろう、と心待ちにすることがあったのです!
ところが、娘が高校生にあがる頃には、クリスマスの喜びよりも、最後の仕切り箱に何かを詰めて、これで終わり、と安堵の吐息を漏らすときを待ちきれないこともありました。
実は子どもたちが大学に進んで以来、この待降節カレンダーをとり出していません。小箱の扉を開ける主役は子どもたちでしたので、わざわざ押入れの奥からそれを引っ張り出してこようという思いにはなりません。さらに、おそらく私が思うに、夫も私もなにか特別な仕掛けをして時の経過にメリハリをつける必要も感じていないでしょう。もういい大人ですから。
とはいっても、待降節は子どもたちの遊びのためにあるものではありません。
待降節には、意図的に私たちの生活のペースを緩やかにして、この希望の季節をじっくりと味わうという目的があります。希望こそは、私たちみなが必要としていることなのですから。子どもたちはエネルギーにあふれていて、ひたすら前に突っ走ろうとする傾向があります。そのためにそのペースを落ち着かせる仕掛けがなにか必要となります。他方で、大人にとっては、時はあっという間に通り過ぎていくものです。
待降節の伝統の具体的な営み、例えば蝋燭やカレンダー、また家庭などで新たに始められた習わしこそは、生活のペースを落ちつかせるためにまさに必要なことなのかもしれません。
そうしてみると、「急いで、それから待つ」という私の性格は、「待って、それから急ぐ」という父の性格と、それほど違わないかもしれません。この来たるべき年も、みなさまにとって、新たな季節を待ち望みじっくり味わうことができるようお祈りいたします。
次回のお話は1月5日(日)に掲載予定です。