2023年02月の善き牧者の学校

(熊本)熊本信愛女学院中学高等学校
校舎外観とチャペル

カトリックのあれこれ

日々の糧

 キリスト者にとって、当たり前のように使われる「日々の糧」というワード。しかし、このような言葉は、普通あまり使いません。初めて聞かれた人は、"えっ、何のこと"と思われる方が多いのではないでしょうか。そこで先ず、「日々の糧」とは何か、それから説明します。

 日々とは、言うまでもなく「毎日」のこと、日常と言うことです。そして糧とは、人間の食する食べ物、食糧です。つまり、「毎日の食べ物」と言うことです。確かに、食べ物は人が生きていく上で大変重要なものです。しかし、それだけで人は、生きていけるのでしょうか。この地上で生物、単なる動物として生きることは可能でしょうが、人として生存可能でしょうか。

 聖書の中に素晴らしい言葉があります。「人はパンだけで生きるものではない」。神の口から出る一つひとつの言葉で生きる」(申命8-3)。
 人が人として生き、成熟していくためには、知識だけでなくプラス「知恵」も必要なのです。その知恵は、ただ黙っていれば与えられる、神様を信じていれば与えられる、読書すれば得られるものでもないのです。人は食べるものがあって、話し相手がいれば自然に成長していきますが、それだけでは不十分ですね。人が人として成熟していくためには、言葉だけではなくその言葉から成る「出来事」です。つまり、言葉と同時に出来事が必要なのです。"聖書"の中で使う言葉とは、出来事も含んだ意味で言葉として使っています。
 人は誰でも言葉を学びます。しかし、その言葉がなんであるかを知るためには、出来事を通して学び、身に付くのです。例えば、いろいろな花の名前を知っていたとしても、それがどのような花であるか判るためには、その花を実際に見たり、匂いを嗅いだり、あるいは触れたりしなければ、その名前が示す花を知ることは出来ません。
 同じように、いくら糧があったとしても、それが食べられるものであるのか、ないのかそれを見分けることが出来なければ、生きる糧にはなりません。生きるということは、日々の生活の中で起こる様々な出来事を通して、私たちがいろいろなことを学び、知恵として体得して初めて、大人になっていく力が与えられると言っても過言ではないでしょう。
 私たちが人として成熟していくためには、日々の糧として一体何が必要で何が必要でないか、それらを見分ける力を付けることです。

 ところが驚かれると思いますが、日々の糧を得る力は、すでに私たちが生まれた時から出来事を通して始まっていたのです。つまり、お母さんの体から生まれ出たとき、赤ちゃんは何かに掴まろうとしています。しかし、掴まるどころか、看護師さんに捕まえられるのです。安全であったお母さんの体内から、全く危険な世界に出てきたのです。赤ちゃんにとってこの世は、誰かが守ってくれない限り、非常に危険な世界です。赤ちゃんを観ると、しっかりとお母さんの体にくっついています。そして、お母さんのおっぱいにすがりついています。お乳を飲むのが終わると、睡魔が襲ってきて、眠り始めますが、大人が手を広げて大の字になって寝るような仕草を見ることはありません。柔らかいお布団の端を小さな手でしっかり握ったり、しっかり拳を作って握っていたりするのが普通です。だからぐっすり眠っている赤ちゃんの手に触ると、すぐにぎゅうっと握るのです。
 そして赤ちゃんは、だんだん大きくなるに従って、そのような手を握ることから解放されていきます。それはお母さんという赤ちゃんにとって大切な保護者との信頼関係が出来上がり、また、父親や周囲のいつも見慣れた人々との関わりの中で、この人なら安心安全という気持ちが芽生えてくるからです。その頃から、手を拳の状態にしなくなります。
 そして、赤ちゃんが歩き始めると、もう大変。好奇心旺盛になり、何でもほしがるし、何でも触れたがります。一番危険なときかもしれません。つまり、いろいろなことに対して危機感というものが分からないからです。そこで親御さんたちは、一生懸命になって赤ちゃんに何が安全で何が危ないかを教えますが、赤ちゃんは「言っている」ことを理解することができません。そこで転んで怪我をしたりしながら、自ら体得していきます。

 このように赤ちゃんの成長過程を見るだけでも、私たち人間が生きていくためには、ただ食べ物だけではないことが、理解できます。自ら学ぶこと、他から学ぶこと、つまり、日々の出来事を通して人が人として成熟していくのです。

 人生、そこには沢山の試練があります。この世界の荒波に揉まれ、自分を見失い自分の歩むべき道から外れている自分。歩み始めたばかりの赤ちゃんのように誰かに頼りたい、誰かにすがりたい、そんな自分。

 イエス様の言葉を糧として、日々喜びのうちに歩んで活きましょう。

心のともしび運動  松村信也