(愛知)学校法人 幼き聖マリア女子学園 聖カピタニオ女子高等学校
校舎と聖堂の十字架ステンドグラス
「巡礼」といいますと一度や二度は、体験された方も多いと思います。
巡礼はキリスト教のオリジナルではありません。仏教もイスラム教もその他の宗教にも巡礼はあります。また今日では、古寺巡礼、世界遺産巡礼、湖水巡礼、音楽、芸術、そしてグルメ巡礼まであります。宗教的な巡礼から始まって、観光、そして趣味の巡礼までいろいろな巡礼がありますが、巡礼とは一体何なのか、その根源を探ってみたいと思います。
「巡礼」を辞書で調べますと、聖地・霊場を参拝してまわる宗教的行為のこと。有名なのは、キリスト教徒のエルサレム巡礼(イスラエル)、イスラム教徒のメッカ巡礼、また日本では仏教の西国・四国巡礼などがあります。
ちなみに日本の場合、平安時代の中頃から主に修験道や仏教の僧侶たちの修行としてとして始まり、やがて布教方法の一つとして巡礼が行われるようになったと伝えられています。また、巡礼することによって心が癒されるとして、次第に庶民の間にも普及し、江戸時代に入ってからは、西国三十三箇所、四国八十八箇所、お伊勢詣でなど、巡礼する人が増加していったそうです。
現代人にあっては、殺伐としたこの世に望みを無くし、自分の生き方、将来に対する不安からか「心のよりどころを求めて」大勢の人々が、「巡礼」にその場を求めているのです。
心の拠り所を求める巡礼は、霊場から霊場、目的地に向かって町から町へ旅をして行く内に、自然に心が洗われ、信仰の世界に入っていく自分を見いだすことが出来るようになると言われます。
言い換えれば、巡礼をしていく内に、自分が自分を深く見つめ、赤裸々な自分と直面し、本当の自分を知らされるのです。それによって新たな自己発見をするのです。そして、自己による自己の救いと新たな力を得て新しく生まれ変わることが出来る、そんな機会を与えてくれるのです。勿論、巡礼したから、必ず誰でもそうなるとは限らないでしょう。
「かわいい子には旅をさせよ」という諺がありますが、人は旅(自分の足で歩く)によって本来の自分になるよう磨かれるのです。それは巡礼の途上で人、出来事、知らない土地の風俗習慣などの出会いによって、知識だけでなく、心の広さ・深さが過去の自分よりも大きくなっていくのです。
例えば、四国のお遍路さんの場合、いろいろなルールがあります。"十善戒"という生き物を殺さない、盗みをしない、嘘をつかない、人の悪口を言わないなどなど。これらを巡礼中に遵守することによって、沢山の気づきから普段の生活の改善、より良い人間形成へと繋がっていくのです。
イスラム教の「巡礼」は、信者としての義務になっています。つまり、信者であれば一生に一度、聖地メッカへ「余裕があるかぎり」巡礼することが、義務とされます。皆同じ白い服を着て、7日間、一斉に世界の各地から集まり、聖地メッカに向けて巡礼します。勿論、観光旅行ではありませんし、遊びでもありません。人種国籍は違っても、皆同じ服を着て、同じ時、同じ場所に集まり、アッラーの神への帰依を示す大集団行動と言われています。
キリスト教巡礼の代表は、エルサレム巡礼、"サンチャゴへの道(サンティアゴ・デ・コンポステーラ)"、また"長崎への道"があります。いずれの巡礼も、聖人たちがキリストの歩んだ道をすべてを委ねて歩んだように、その道を巡るのです。巡礼の途上で、イエスの受難、死、そして復活を思い起こしながら辿った聖人たちのように、自らも旅を通して体験していくのです。
ただひたすら歩く、来る日も来る日も希望を抱いて歩み続けるその途上での自己との闘い、赤裸々な自分との直面、新たな自己発見、そして真のイエス・キリストとの出会いの体験こそ、巡礼の本質的な目的ではないでしょうか。
心のともしび運動 松村信也