(広島)学校法人 福山暁の星学院
中学・高等学校 校舎と聖堂
(恵み)
恵み(希望)は心の中で働き、育まれる。したがって、私たちが意識してもしなくても生き続けているのです。農夫は、種をまくが、種は寝ている間に育つ。心の中で神の恵みが、どのように発展していくのかが大切です。
毎年、"王たるキリスト"の祝日に朗読されるマタイ福音書25章の審判の箇所を読めばお分かりになるでしょう。それまで意識されていなかった行為が明らかにされるのです。つまり、人に対して心を開いて生きるということが大切なのです。心の中に人に対する思いやり、憐れみがあること、人に対して心を動かされるのであれば、それでよいのです。
審判のときに戸惑った彼らは、秘跡にも典礼にも与ったことはないのです。
大切なのは心の問題です。信仰とは心の問題であり、心が生き生きしているか、いないかではないでしょうか。
典礼とか秘跡は、心の代わりになるのではなく、心の支えになるものです。例えば、私は初金曜日のミサには、必ず、参加しています。何回行けば救われるとか、救われないとかという問題ではありません。
カトリック教会の中には「信心」というものがありますが、良い信心とは、心の為でなくてはならないのです。秘跡や典礼は大切ではありますが、心の代わりになるものではありません。ただ、与った者の意識が変わるということです。これも変わるか、変わらないかは、与った者の意識、心の問題しだいです。
(聖霊)
神と神の子イエス・キリストから発出される霊のこと。この聖霊の助けは大きいでしょう。ヨハネ福音書では、聖霊は風のように吹くといわれています。「どこから吹いてくるのか、どこへ行くのか誰も知らない」。つまり、誰もこの聖霊をコントロールすることは出来ません。心の中に本物が生きるとき聖霊が働かれて聖霊が導かれる。
ガラテヤ書5:22-24では、聖霊が来るとき導かれる。言い換えれば、現実が大切であるということです。信仰を生きるとは、それぞれ"人の生き方全体"を総称して言う言葉です。
典礼や秘跡を考えるとき、「恵み」なしに話すことは出来ないということです。つまり、「恵み」がテーマであるということです。それは義務や規則ではなく、典礼や秘跡に与ることは、恵みに与るときであるということです。
人知を超越した「神の近さを体験する時」であるから、子どもも大人も秘跡に与からないから罪であるというのは、理にかなった教えではありません。秘跡も典礼も「恵み」の場であって、罪の場ではないからです。神を祝いに行く事がなぜ罪に変わってしまうのですか。
罪びとであるからミサに与りに行くのではないでしょうか。
典礼と秘跡は、恵みの場であるのです。だから与らないと、罪びとである私には、損をするという感じでもあるのです。しかし、なんとなく物足りない、そう感じられる方も多いでしょう。「これでいいのか??」でも罪ではないし、義務でもないからそれでいいのです。私たちはこれから、典礼や秘跡をもっと自由なものとして強調する必要があるでしょう。私たちは誰でも私たちの希望であり信仰を祝っているからです。又、人生の問題から聖霊の力で自由になることは大切なことです。闇から光を得るのです。そのようなことを祝う為に典礼はあるのです。