2022年05月の善き牧者の学校
(静岡)静岡聖光学院中学校・高等学校
校舎・聖堂外観と聖堂内観

カトリックのあれこれ

祈りの宝箱

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 教会へ行くと必ず聞かされる言葉に「祈り」があります。

 「祈りましょう」の合図と共に、合掌し頭をたれる時、それが祈りの姿となります。
 心の中は、例え別のことを考えていても誰にも見えないし、解りません。観えるのは、解るのは神だけです。
 それが判っていても、ついつい他のことを考えてしまいます。つまり、祈りは自分にとって益となるものでなければ真剣に祈ることが難しいのです。

 祈りが益となるためには、自分に一番合った祈りの方法を日々の生活の中で発見することが大切です。

 それは日々の生活における沈黙の時間の中で、独自の方法(歩く、立つ、座る、跪く等)による回想の積み重ねによって形作られるものです。

 沈黙を習慣づける為には、ロヨラのイグナチオの奨める意識の糺明(Examen)があります。意識の糺明とは、半日毎あるいは一日の終わりに、今日一日の出来事一つ一つを丁寧に回想していくのです。

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 今日一日、自然と出会い、人と出会い、それらの中で自分の感じたこと話したこと、また人から話されたことなどを詳細に観ていくのです。そうすることによって何かを発見したり、何かに気づかされたりします。

 その発見、その気づきがあなた自身に何らかの変化をもたらせ、祈りへと導かれるのです。
 この延長線上に黙想、観想に繋がる祈りがあります。
 これこそ私たちが求める「祈り」なのです。

心のともしび運動  松村信也