2022年07月の善き牧者の学校
(東京)東京純心女子中学校・高等学校
校舎と聖堂

カトリックのあれこれ

殉教者について

 一般に「殉教」と言うと、何故かイコールでキリスト教を思い浮かべる人が多いと思います。しかし、殉教と言う言葉は、キリスト教以外の宗教でも使われています。宗教的迫害において人の命を奪われた場合や、棄教を強制され、其れに応じないで死を選ぶ場合など様々な形の殉教があります。また異質なところでは、イスラム過激派の自爆テロの人を、彼らは殉教者と呼んでいます。いずれの場合にせよ、殉教とは「自らの信仰のために命を失ったと見なされる死のこと」を言います。

 ではキリスト教で言うところの殉教の意味ですが、語源はギリシャ語で"μάρτυριά""Martirya"といい、「証人(あかしびと)・証言・証拠」という意味から来ています。つまり、殉教とみなされるには、その死が「➀その人の信仰を証していると同時に、➁人々の信仰を呼び起こすものであるかどうか」という二つのことが基準とされます。

 ちなみにキリスト教の最初の殉教者は、新約聖書に登場する、ステファノと使徒ヤコブです。洗礼者ヨハネも殉教者と言われていますが、伝統的にはイエス・キリストの死以降のステファノが「最初の殉教者」です。勿論、イエスの使徒と呼ばれた弟子たちは、ヨハネを除く全ての弟子が殉教したと言われています。

 さて、場所を日本に移して殉教を考えてみましょう。我が国で殉教者といいますと、とかくキリシタンの代名詞のように思われますが、どうしてキリスト教だけが目立つのでしょうか。それは日本の歴史から推測できると思います。なぜ我が国でキリスト教の信者が殉教に遭わなければならなかったのか。その理由を調べていくと、すぐに、キリスト教が日本に伝えられた時代が大きく影響したことに気付かされます。

 1467年から77年まで11年間も続いた応仁の乱。将軍の後継者争い、守護大名の家督争いが実力者の権力抗争に結びつき、11年にも及ぶ大乱が勃発。この応仁の乱で京都は焦土とかし、幕府の権威は失墜。世は群雄(英雄たち)が割拠する戦国時代に突入した。1493年、北条早雲が武力で伊豆を占領し「戦国時代」が本格的に幕を開けた。

 (約50年後)1549年8月15日、フランシスコ・サビエル一行は初めて日本の地・鹿児島に上陸した。其れより7年前、鉄砲を積んだ中国の舟が、嵐のため種子島に漂着した。この時に、乗組員のポルトガル人から日本人が大金をはたいて鉄砲2丁を購入した事に留意すべきである。鉄砲を購入した日本人は、その鉄砲をまねて我が国で初めて"火縄銃・種子島"の製造に成功した。これは勿論、戦に使うことを目的として製造した。

 1553年から1564年、川中島の戦い(武田信玄&上杉謙信)。1560年桶狭間の戦い(織田信長&今川義元)。1570年姉川の戦い。1575年長篠合戦。1590年豊臣秀吉天下統一。1600年関ヶ原の戦い。
 1567年、キリシタン大名として有名であった大友宗隣は(当時、豊後・肥後など九州6カ国の守護大名)、南蛮貿易に熱心であり、その目的は、大砲や火薬の原料となる硝石の輸入であった(イエズス会に対し熱い庇護を与えていることを述べ、毛利に硝石を売ることを止めさせる)。日本の戦において銃だけでなく大砲を用いたのは宗隣が最初であると伝えられている。

 1576年に洗礼をうけた宗隣は、次第に信仰の人となっていく。

 当時、戦の中にあってけがを負った人々、貧しい人々、親兄弟を亡くした子どもたちで町は溢れていたと伝えられる。その有様に直面したキリスト教は、宣教師たちを中心に慈善事業を興していた。  こうして次第にキリスト教を信奉する人々が増えた。(*1587年バテレン追放令。宣教師に20日以内の国外退去。)キリシタンをよく思わない大名たちにとって、あまりおもしろくないことであったが、武器や近代技術のために南蛮貿易を進めた。

 ところが1596年スペインのフェリペ号事件が勃発。スペインが布教を植民地の拡大のために利用しているという噂が広まった。南蛮貿易に疑念を感じた当時の将軍豊臣秀吉は、植民地化されることに危機感を持ち、キリスト教禁止令を出した。そして、石田三成にキリシタン逮捕と処刑を命じた。
 ここに長崎でキリシタン26人が殉教することとなった。秀吉は朝鮮出兵に失敗し、その後政権崩壊へと繋がる。

 1598年豊臣秀吉が病死した後、これに変わって徳川家康の時代となった。家康は初めの頃、キリスト教を黙認していたが、1612年禁止令発布し、全国に広がっていたキリスト教信者を迫害した。(1639年鎖国) *詳しく知りたい方はホームページの「知っとこコーナー」https://tomoshibi.or.jp/christian_history/ayumi/を参照してください。

 このように日本での殉教者は、個々の教義や態度が問題にされるのではなく、キリスト教徒であること自体が罪とされたのです。つまり、キリスト教徒として捕らえられた者は、キリスト教を棄てればゆるされたと言うことです。しかし、棄教を拒んだ人は、例外なく死刑になり、しばしば拷問の末に残酷な処刑方法で殺されたのです。16世紀から20世紀にかけて沢山の外国人宣教師をはじめ日本の信者が、己の命と引き換えに自らの信仰を守り通したのです。

心のともしび運動  松村信也