(宮崎)聖心ウルスラ学園高等学校
校舎本館と御聖堂
典礼は御言葉との関係が大切である。神学的にも「典礼や秘跡は、御言葉を体で表すことである」といわれている。御言葉なしには典礼は考えられない。したがって、準備は大切であるし、必要不可欠なものである。どのように読むのか、神の言葉であることを味わう為には、どのようにしたら良いのか準備することは大切です。
聖書を公に読む為の訓練が必要でしょう。生きた言葉として伝わるように。神の言葉だから、ドラマチックな内容ならそのように読む、説教なら黙想的に読む。聖書にはいろいろな種類の言葉があります。それを味わえるように伝える必要があると思います。
典礼と秘跡を深く広く理解して、典礼には様々なことが必要である。いつもこれまでのやり方を踏襲したワンパターンではよろしくない。私たちの心と同じ、いつも多様であることが重要である。なぜなら共同体は生きているからです。
共同体が落ち込んでいるのか、疲れているのか、元気なのか、現実的に今に対応することが大切である。現代の日本人は将来に希望を失って落ち込んでいる。これをどのようにミサの中で希望につなげることが出来るのか、それが出発点である。
典礼には多様性が必要である。ミサの意味は年寄り、子供、青年など意識も理解も皆異なっています。そこで現実的には難しいのですが、具体的な人の歩みに関わるとき、ミサは一層生き生きしてくるでしょう。大切なのは、集まり与る人々が、典礼で神に出会い、神に近寄り、喜びを体験することです。
私たちが共通して体験していることは、具体的な人の問題や歩み、人の関わっているテーマをミサのテーマにするときこそ、ミサは生き生きしたものになるということです。したがって、典礼は抽象的になってはダメになるのです。しかし、そこには規則もあり、簡単ではないでしょうし、また司祭の養成の問題もあるでしょう。これから私たちの捧げるミサは、共同体のものであるから、いろいろな世代からの要望の声を挙げていく必要があるでしょう。
ミサはみんなのものである。昔の神学、初代教会の頃にすでにミサにおける聖変化は、
(1)司祭の言葉、(2)信徒の祈り、(3)聖霊の力 であるといわれてきました。
ミサは共同体の祝いである。皆の気持ちを言葉にする。皆の声がもっと聞かれると良い。
心のともしび運動 松村信也
*「カトリック信仰の大切なもの」のシリーズは今回で終了です。
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