(大阪)学校法人 大阪信愛女学院
外観と聖堂
(典礼)
キリスト者にとって「主に従って生きる」信仰の中心は一体どこにあるのか。これは常に念頭に置き見逃さないことが大切です。キリスト信者の一部の人は、典礼そのものを、秘跡そのものを、信仰の中心に考えられている方が多いのです。しかし、典礼や秘跡で最も大切なことは、典礼と秘跡は「キリスト信者の信仰の表現」であることです。
したがってどの「信仰表現」よりも大切なことは、「生き方」そのものが最も大切なことなのです。
例えば、個人的、家庭、職場の事情などで典礼に与れないときに、罪悪感を覚える必要は無いということです。では何が大切かといえば、家庭であり、職場であり、学校でしょう。それらを放ったらかしにしてまで、ミサに行く必要性があるかどうか、何が大事であるか判断することは大切です。
中でも私たちの生活が最も大切です。ミサに行かなければ罪ということはありません。いろいろな諸事が生活の中で起こっています。当然のことながら、諸事は日曜日に起こることもあります。そんな時、何が大切であるのかを考えなければならないでしょう。
信仰に生きるには、自分に与えられた人生をしっかりと生きることが大切であり、第一の優先課題としなければならないでしょう。それらをさておいてミサにというのは、どこか自分の人生を逃げているところがあるのではないでしょうか。
(秘跡)
どのような儀式よりも、どのような祝いよりも「神の恵み」のほうが、「深く大きく自由である」ということです。ある神学者は言う。「神の恵みは秘跡に束縛されなくて秘跡よりも大きい」と指摘しています。
つまり、キリスト信者にとって、罪がゆるされる為には「ゆるしの秘跡」に与らないと罪がゆるされないということは、おかしいという事です。「それじゃ!ゆるしの秘跡の意味がないじゃないですか!」と反論される神父、修道者の方がおられますし、また現在でも彼らはそのように教えています。「でも変だとはお思いになりませんか?」
神は自由なんですよ。いくら秘跡が沢山あっても、神の恵みはそれらを遥かに超えているのです。
どうも不思議なことなんですが、私は大人になってから受洗しましたし、受洗前にも沢山の恵みを頂戴していました。でもどうしてカトリックの信者になった途端に、恵みの道が狭くなるのでしょうか。神は善人にも悪人にも雨を降らせてくれるのです。神の恵みはすべての人への太陽なのです。したがって、何も典礼や秘跡があるからといって神の恵みまで、人(カトリック信者)がコントロールする必要があるのでしょうか。神は自由ですよ。
典礼や秘跡があるから恵みが小さくなるなら、全く意味がないのではないですか。そうではなく、典礼や秘跡は、神の無限の恵みを表現し、かつ生かす為のしるしであり、神との約束・助けなんです。典礼や秘跡は、神の恵みをコントロールすることは出来ません。
わが国において250年間も続いた「鎖国」、それによるキリシタン迫害と禁教にあっても信仰が生き続ける恵み(希望)が与えられたのです。これは事実としてあるのです。
心のともしび運動
松村信也