(広島)学校法人 ノートルダム清心学園
中・高等学校 新講堂と創立者ジュリー・ビリアート像
典礼には目的があります。典礼によって私たちは神に向かって歩み、和解し、キリストの体に入り、自分のミッションを受け入れ、あるいは結婚の道を歩むなど、いろいろな目的があるのです。
しかし、恵みを漠然と戴くのが目的ではないのです。すべての人は、すでに恵みに包まれているのです。したがって、結婚の恵み、洗礼の恵み、共同体の恵み、和解の恵み、どの恵みであるか具体的に恵みを捉えることが大切なのです。
日常生活の中にあって、いろいろな悩みや問題があって、どうすればよいのかわからないとき、典礼が助けになります。典礼の構造には「はじめ」があり、「プロセス」があり、「目的」があるからです。これはドラマです。
あまり意識されていないし説明がされていないが、ミサには明確な構造があります。心のプロセスが大切であり、儀式的に判断してはいけないのです。ミサには弱い者として来る。罪の告白では有りません。罪人としての意識を深めることで神の助けを求めてくるのです。その時、どのような問題を抱えているのか、様々な問題があります、それが出発点です。それぞれの人が抱える問題そのものが出発点です。それに対して神は、何を与えてくれるか。御言葉を大切にすること。キリストがどのように私たちを引っ張って御父に導いて下さるのか。それが終点です。
神はご自身から出て世界を創られ、その世界を神の国にしたいと考えておられる。この動きが創造のときから始まります。キリストも同じです。人間となられ十字架まで降りてこられ、そこから御父へ向かわれた。典礼もそれを記念して私たちをそこに招待してくれるのです。キリストの動きを目の前に表現してわれわれの心が動くようになる。そこに根本がある。
典礼に与れば恵みがある。落ち着いて祈れるとか言うのではない。祈るならどこでも祈れる。典礼は違う。典礼は共同体の歩みです。心の歩みの表現です。日常生活の体験の変化。我々はいつも日常で問題に遭遇する。どうすればそこから出られるのか。話を聞いても頭で判っても、心が動かないことが多い。典礼の時には、共同体として同じような悩みを持ってきて皆で歌い、御言葉を聞いて、共同体の信仰と祈りに支えられて自分の心が御言葉に向かうことが出来るようになる場が典礼です。
ミサに行くとき祈りたいなら、30分前に行って一人で祈る。ミサが始まったら皆でキリストの中に入る。キリストを記念する。「これを私の記念として行いなさい」。私(キリスト)のドラマを記念して、あなた方もその同じドラマの中に歩んでください。ドラマにはいろいろな要素がありますが、その関係がはっきりすればよいのです。どのようにすれば我々の信仰が養われるのか。どうすれば我々の体験が入れるのか、どうすれば我々の心が動くのか。
大切なポイントは「共同体になっていないと良い典礼は難しい」と言うことです。共同体の概念は、多岐であっても、何らかの一致を感じさせるものが、集まっている人たちの中にないと良い典礼は生まれない。それは小教区でも、修道院でも同じである。ミサに与ると共同体の状態が分かるといわれる。その共同体に交わりがないと儀式になってしまう。
典礼は共同体の状態から独立していない。共同体との関係が大切である。
心のともしび運動 松村信也