カトリック北白川教会(京都市)
⑥小教区における刷新された共同体−1
小教区の現状と新しい共同体作りを考えるとき、私たちは次のことを理解し、行動に移さなければならないでしょう。
キリスト者であるということは、聖職者、修道者、一般信徒にかかわらず皆キリストの前にあって、同じ信者であるという事。従って、「洗礼を受けたすべての信者は使徒職遂行の権利を持ち、その実践の義務は信者一人ひとりに課せられています。老若男女を問わず、身分、職業、教養、環境のいかんにかかわらず、キリスト者は洗礼を受けたその瞬間から、神によって、使徒・宣教者となるよう召されている」( 教会憲章31項)からです。これらを前提にして、真のキリスト者の姿を、信仰に根ざした生活をもって世に示し、一人ひとりの信者が、キリストの使徒として世俗的世界と関わっていくのです。
一人の信徒が、非常に複雑化した日本社会に入っていくために、小教区の存在は大切です。しかし、現在小教区をみるとき果たして教会憲章31項で言われることが、信徒に受け入れられ、実践されているのかという疑問に立たされます。ある神学者は、「小教区の信者はキリストにおける兄弟姉妹ではあるが、小教区の信徒(特に都市小教区)相互間の関係は非人格的なものにすぎない」と言っています。これは具体的に何が問題になっているのでしょうか。
それは信徒の大半は、所属教会の選択において地理的に便利なことだけで小教区を選び信仰を守るが、小教区の共同体生活には、参画しなくなっていることです。この傾向は小教区の規模が大きくなればなるほど強いように思われます。
そこで司牧者たちは、小教区再建案を作るとき、次の二つの対策をたてるのです。
しかし、いずれもメリット、デメリットを含んでいます。
前者1.において、しばしば失敗のケースが見られています。それは少数の会、運動、グループ組織のために、それらに司牧者が全勢力を傾注すると、他の大多数の信徒の世話がおろそかになり、そうして出来た小教区共同体は、外の世界や他の大多数の信者から浮き上がってしまうのです。
後者2.において、一見理想的に思えるものの、これは司牧者の具体的対策を怠った、理念だけの方法に偏ってしまうのです。信者が教会に身体を運びさえすればよいのではなく、全人間的な、知的で積極的な参加こそ大切なのです。また、信者が何を求めて教会の門をくぐるか、秘跡からどんな収穫を得ているか、その結果、日々の生活がどのように改善されているかが肝心なのです。小教区は大勢の人を集めることだけを目的とするのではなく、一種の教育の場として考え、キリストの証人となる力を与えて、すみやかに日常生活に送り返すことを目的としなくてはならないからです。
そこで共同体作りの基本的条件として次のことが必要と考えられます。
つまり、パウロの言う「心の深みまで新たにされて、真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」(エフェソ 4:24) 。
福音に生きる共同体は、組織作りや制度によって作られるというよりは、むしろ聖霊によってこそ育てられるのです。
キリストの命に生かされた分かち合いの場としての共同体が増えていくことによって、社会をも内側から福音化していくキリストの救いの業に合流できる教会になっていくのではないでしょうか。
教会を育て、発展させる教会の公的な奉仕職である祭司職は、単に叙階された少数の人々に限定されず、教会内のすべての人々に開かれねばならないでしょう。第二バチカン公会議は、司祭不足を認め、叙階されていない信徒の役務者としての道を開いています。
そこで例えば、次のようなことを実践することもすべてのキリスト者への意識化に役立つのではないでしょうか。それは、祭司職の本質が叙階ではなく、教会における公的な奉仕職であるならば、栄光色が強くて、信徒との格差を感じさせるような叙階式ではなく、簡素でより奉仕職の強いイメージを信徒に与えるような叙階式に変えていくようにすることです。それは内的変革に加え外的変革において、聖職者、信徒にその変革を意識化させるのに役立つ一つの方法ではないかと考えます。
最後に第二バチカン公会議後58年を経た現在、21世紀における教会が、公会議の精神をくみ取り、新しい教会の姿を目指すための具体的指針を、次のようにまとめてみました。
私たち日本のカトリック教会は、第二バチカン公会議の精神をよりよく理解し、過去の誤りを正し、新しい洞察へ転換し、聖職者と信徒が互いに協力しながら具体的目標に向かって日々生活の中で実践していくことにより、明日のカトリック教会の姿を造っていくことが出来るのではないでしょうか。今年バチカンにおいて10月から始まるシノドスによって、その姿を日本の教会の中に具現化できることを祈願しています。
イエズス会員 松村信也