2022年09月のキリスト教の歴史
カールス教会(ウイーン)

明日の教会に向けて

②第二バチカン公会議公文書-1

『信徒使徒職に関する教令』

 1965年12月第二バチカン公会議が終わり、公文書が出版されました。我が国では、その21年後1986年7月にすべての信者に向けられた「公文書全集」が南山大学監修により出版され、大勢の信者、未洗者の方々に読まれました。また公文書に基づいて日本全国で様々な企画もありました。その最も代表的で、日本の教会にとり画期的な会議は、1987年京都で開催されたNICE I(National Incentive Convention Evangelization・福音宣教推進全国会議)と長崎で開催したNICE IIであったと思います。その後、全国会議は開催されていませんが、二回の全国大会を受けてそれぞれの教区で、実践に移行されています。その実践過程の中で大きな試練があり(1995年阪神淡路大震災、2011年東北大震災等など)、NICEの実践を停滞させられたかのように思っていた、そんな忘失の頃、2013年第二バチカン公会議公文書の改訂公式訳が出版されました。それは、これまでの公文書と内容が異なるということではなく、読みやすく、かつ新しく訳語を統一した公式訳となりました。

 この改訂公式訳の出版は、司祭、修道者だけでなく信徒の方々にも再度読み直して戴き、よく理解して欲しいという意味合いも込められているのだと思いました。
 そこで特に今回は、信徒の方々に直接関わる『信徒使徒職に関する教令』から、その主な内容理解のため、各章ごとにまとめました。この解説は数回に渡って連載を予定しています。少し専門的な説明になりますが、明日の教会の発展の為に、ご参考になれば幸いです。

心のともしび運動  松村信也

                    

  『信徒使徒職に関する教令』:

  第一章:使徒職への信徒の召し出し

  1. キリスト者としての信徒の自覚。

 はじめに、信徒(laicus:layman) という言葉が、第二バチカン公会議の準備委員会において問題にされました。それはラテン語のlaicusが好ましくない意味をもつlaicism(聖職否定の在家主義) やlaicisation(還俗、教会の支配よりの脱却) 等を想像させるという理由からでした。しかし、準備委員会はlaicusに代わる適当な用語を見出すことができず、この言葉に明確な定義を表示することで落ち着いたようです。
 そこで定義として教会憲章31項で「ここで言われている信徒とは、聖なる叙階を受けた者、ならびに教会において認可された修道身分に属する者以外のすべてのキリスト信者のことである」と述べています。しかし、果たして信徒とは、そのような消極的なものなのでしょうか。かつて日本では、教会の中にあって神から特別な召命を受けていない一般大衆とか、平信者という言葉を使っていました。そこから理解される信徒とは、カトリック教会を構成している底辺的存在であったのです。このような信徒の理解で本当に正しいのでしょうか。
 第二バチカン公会議の準備委員会は、この問題についてかなり長い期間に渡って議論を交わしたのです。その結果、「信徒」の言葉に一定の定義を与えるよりも、「信徒」という身分を明確にして、詳細に著わすことになったのです。それが、上述に引き続き教会憲章31項に述べられています。「すなわち、洗礼によってキリストに合体され、神の民に組み込まれ、自分たちのあり方に従ってキリストの祭司職・預言職・王職に参与する者となり、教会と世界の中で自分たちの分に応じてキリストを信じる民全体の使命を果たすキリスト信者のことである」と。それは、一般信者という消極的な立場ではなく、現世的な事柄に従事し、それらを神に従って秩序づけ、その神の国の追求を独自の召命とするものであって、神から召されたものであるという事です。
 このことをまず理解したうえで、『信徒使徒職に関する教令』を読むことが大切であるでしょう。このようにしてはじめて教会憲章31項の後半部分を、"洗礼を受けたすべての信者は使徒職遂行の権利をもち、その実践の義務は信者一人ひとりに課せられている。老若男女を問わず、身分、職業、教養、環境のいかんにかかわらず、キリスト信者は洗礼を受けたその瞬間から、神によって、使徒・宣教者となるよう召されている"と理解できるのではないでしょうか。このことを前提にして、一人ひとりの信者が、真のキリスト者の姿を信仰に根ざした生活をもって世に示し、キリストの使徒として世俗的世界の中で、人々と関わっていくのです。

  2. 信徒の使徒職とは何か。

 信徒はそれぞれの能力に応じて、積極的に教会の発展に寄与するように召されています。従って、信徒が全世界を実際にキリストへと秩序づけるため働くとき、使徒職を行うのです。その働きはキリストの証となり、人々の救いに奉仕すると本教令2項でうたっています。
 これは、信徒もキリストの祭司職、預言職、王職にあずかる者であり、教会と世間において、神の民全体の使命における自分の役割を果たすことなのです。従来は、信者の務め(日曜のミサに与かる,赦しの秘跡を受ける,聖体訪問する,ロザリオを唱え朝夕の短い祈りをする等)さえ守っている人は、熱心な信者だと言われていました。しかし、真に熱心であれば、自分の受けた賜物を世に伝えて行こうと行動する事こそ大切なのです。この両方が兼ね備わってこそ真に熱心な信者であり、これらの使命は二つではなく、本来一つのものなのです。
 また信徒は、特に一人ひとりの生活の証を通して、キリストを世の人々に現すように召されています(教会憲章31項)。それは信徒が、世間の人々の中にあって、世間の人々とともに生き、家庭を持ち、世間の職業に従事しているからです。信徒であればこそキリストを世に現すために、家庭を持たず世間の職業にも携わらない聖職者にはできないことをすることができるからです。

 使徒職は、聖霊がすべての信者の心の中に注いでいる信仰によって、愛に促されて神の栄光と人々の救いのために働かねばなりません。特に、自分の司牧者と交わりながら行動されるべきものです。つまり、それは自分の外部にむかって働きかける行動なのです。しかし、注意しなければならないことは、すべての行動が、どのような行いであっても、行動の価値はその行動の量や性質によるのではなく、行動の動機にかかっているのです。またその行動の動機とは、キリストが望まれたように望み、キリストが愛されたように愛し、そして、キリストが耐え忍んだのと同じ意向を持って、私たちも耐え忍ぶことなのです。

 キリストは、すべてを父の栄光という純粋な意向を貫かれたのです。そのために信徒は、聖霊の恵みの場であり、かつキリスト信者の中心である典礼に積極的に参加しなければならないのです。